春の選抜の第1回大会からの連続出場記録は11年連続。その記録を持つチームは夏の選手権でも第1回大会から14年連続という記録を誇っている。その14年の間、1921年と22年の第7回、第8回大会で史上初の夏連覇を達成、野球王国・和歌山を築くきっかけとなった。そのチームこそが“戦前最強”と謳われた和歌山中(現・桐蔭)である。
和歌山中が初めて選抜優勝を果たしたのは1927年の第4回大会。夏の大会連覇から5年後のことだった。この時のチームの大黒柱となったのが、甲子園の創世記(大正末期~昭和初期)に現れ、“不世出の豪腕サウスポー”と呼ばれた小川正太郎(早大)である。小川の流麗な投球フォームは“芸術品”とも言われ、当時の投手の手本となったほどだった。そして小川がその実力の一端を示したのが、1925年の夏の第11回大会である。ベスト4まで勝ち上がった和歌山中は大連商(満州)と対戦。試合は小川の好投むなしく0‐1で惜敗したのだが、何とここで小川は“8連続奪三振”の快投を演じたのである。この記録は2012年の夏の第94回大会で桐光学園(神奈川)の松井裕樹(現・楽天)が今治西(愛媛)戦で10連続奪三振をマークするまで86年間の長きに渡って誰も破ることが出来なかった、球史に残る大記録だったのである。
そんな大投手が初めて栄冠を手にしたのが1927年の第4回春の選抜だった。この年の選抜は、前年暮れに崩御された大正天皇の国喪に服していたこともあり、開催時期が遅れたうえに入場行進は中止され、大会日程は3日間、出場校も前年の出場16チームから8チームに縮小されて開催されたのだが、小川は初戦の関西学院中(現・関西学院=兵庫)戦で13奪三振をマークし、6‐0の快勝。続く準決勝も強豪・松山商(愛媛)を被安打わずか1の10奪三振で完投し、4‐1で余裕の勝利。ついに和歌山中を春の選抜初の決勝戦へと導いたのである。
迎えたその決勝戦では“まるで2階から落ちてくるかのような”と評されたカーブと快速球を武器に前年覇者の広陵中(現・広陵=広島)相手に10奪三振。打線も小川を援護して8‐3で快勝して和歌山中が初の選抜優勝を果たしたのだった。
なお、この後、和歌山中は春の選抜で準優勝1回、桐蔭と校名を変更してから夏の選手権で2回準優勝を果たしているが、この時を最後に甲子園優勝からは遠ざかっている。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=