その岸は、東京帝国大学法学部を首席で卒業したが、あえて官僚の「本流」である大蔵省や内務省に入らず、農商務省に入っている。
すでに、学生時代にして、以後の日本の課題が産業の興隆いかんにかかることを読んでいたということだった。
こうした俊才は、農商務省で確実に頭角を現し、出向先の「満州国」では、合理化と官民協同による産業育成を成功させてみせるなどの手腕を発揮、ついにはその後改組された商工省の次官にまで上り詰めたものであった。
とくに、その頭脳明晰ぶり、キレ味は満州国あるいは国内の政財官界に知れわたっていた。「満州国産業開発5カ年計画」の立案を手がけたのが白眉で、満州では「二キ三スケ」として知られていた。これは関東軍参謀長の東条英機、大蔵省から派遣された星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右、「日産」の鮎川義介の5人の満州国を動かした実力者で、岸はその最年少だったのだ。
一方、岸は法案などの行政事務では相手かまわずケンカを売り、ことごとく論破しては相手を沈黙させるのをトクイとした。岸が商工省次官当時の近衛文麿(このえふみまろ)内閣の小林一三(いちぞう)商工大臣などは、この岸次官に完全に一目置き、「ケンカ名人の君と議論するのはもうイヤだ」と、そのキレ味にはホトホト参ったとの話が残っている。
しかし、岸は戦時中の東条英機首相にもその秀才ぶりを買われ、東条内閣末期の国務大臣兼軍需次官にも引き上げられている。しかし、戦後、この東条内閣での国務大臣兼軍需次官がアダとなり、A級戦犯として逮捕、巣鴨拘置所入りを余儀なくされたのであった。岸は3年3カ月余をこの「巣鴨」で過ごしたのち、不起訴として釈放されたが、同時にパージにも引っかかったということだった。
一方で、この「巣鴨」体験は、のちのトップリーダーとしての岸の政治的信念をいやが上にも強固なものにしていった出来事だったとされている。新日米安保条約締結への確信も、「巣鴨」での獄中にあってなお信念の揺るがぬ実力者たちとの接触の中で得たとされているのである。
ちなみに、岸をよく知る政界関係者の一人は、かつて岸の「巣鴨」でのこんなエピソードを筆者に語ってくれたことがある。
「やはり、“巣鴨”入りしていた笹川良一(元・日本船舶振興会会長)と岸が雑談したときがあった。時に岸は50歳に手が届いていたが、『どうも夢精してかなわんのだ』と言い、こちらも豪胆で鳴っていた笹川をアキレさせた。明日の命が分からぬ身で夢精とは、岸がいかにハラがすわった人物かが分かる」
「巣鴨」釈放、パージ解除を待った岸は、待ってましたとばかり「日本再建連盟」を結成して会長におさまり、憲法改正と反共政策を提唱した。しかし岸にとって本来の目標だったこの憲法改正は、新日米安保条約成立過程での国論二分の混乱の中で、手をつけるすべはまったくなかったのだた。
■岸信介の略歴
明治29(1896)年11月13日、山口県生まれ。第一高等学校入学後、養子先の岸に改姓。A級戦犯容疑で逮捕、巣鴨拘置所収容・釈放。公職追放・解除後、改憲を目指す「日本再建連盟」会長。昭和32(1957)年2月、60歳で総理就任。昭和62(1987)年8月7日、90歳で死去。
総理大臣歴:第56.57代1957年2月25日~1960年7月19日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。