ナイターの光は、同時に影も作る。一軍昇格者の数だけ登録抹消者がいる。不振、ケガ、体力の衰え‥‥どん底に落とされ、そこからはい上がった選手がみずから語る復活劇。シリーズ第1回は415日ぶりに白星をあげた〝ハマの番長〟だ。現役続行に賭けるベテランの闘志を、苦難の世を生きる糧としたい。
「引退」もよぎった二軍落ち
7月10日、その指令は突然やってきた。楽天戦との二軍戦に先発し3回を1安打無失点に抑えてから、中3日での一軍先発登板。若い投手ならいざ知らず、今年38歳になる三浦には厳しい日程だった。
三浦が言う。
「確かに登板間隔が短くてビックリしましたけど、それ以上に一軍で投げられる、やっとこの日が来たという喜びのほうが、ずっと大きかったですね」
67日ぶりとなる一軍のマウンドは、中日を相手に初回いきなり3者三振という、この上ない立ち上がりを見せた。だが、それでも本人はベテランらしく冷静に分析していた。
「逆に気を引き締めましたね。調子に乗って力勝負にいって、痛い目にあったことは今まで何度もあった。自分は三振を狙って取れるピッチャーじゃない、勘違いするなよ、と。ファームで練習してきたことをそのまま出せばいい。打たれたらどうしようなどと、よけいなことは考えず、新沼(捕手)の出したサインを信じて集中して投げました」
2回以降は、低めへのコントロールを意識した。結果、6回98球を投げて被安打5、1失点という堂々たる内容だった。130キロ台だったストレートも、最速144キロを記録。いや、球速以上に球のキレに確かな手応えを感じた。
帰ってきたエースの力投に打線も奮起。7回に逆転して、三浦は昨年の5月20日以来、415日ぶりの勝ち星を手にした。
「正直、苦しかったですよ、1年2カ月も勝てていなかったわけですから。チームの戦力になれていない、責任を果たせていない苦しさ。それと、息子が少年野球をやってるんですが、小4になって野球がわかり始めた頃に、いいところを見せてやれないオヤジとしてのつらさ。あの日、家族から『おめでとう』と言われたのが本当にうれしかったですね。それまでは『お疲れさま』でしたから」
昨シーズンは3勝8敗に終わり、今季は雪辱を期してキャンプから周到に準備した。年齢的な部分を考慮して、投げ込んで肩を作っていたのを、投休日を設けて肩を休ませる調整法も試みた。
ところが、今季初登板のヤクルト戦(4月15日)は5回被安打7の3失点で敗戦。2度目の中日戦(同27日)は、0対1のまま降雨コールド負けする不運に見舞われた。そして3試合目、5月4日の広島戦で、三浦は1回3失点と炎上し初回降板。即日、二軍行きを通告されたのだ。
尾花高夫監督は「世代交代の意味もある」と厳しい表情で語ったものだ。
「去年勝ってなかったから丁寧にという意識が先にきて、攻めのピッチングができなかった。移動日と休日にあれこれ1人で考えて、正直ヘコみましたよ。年齢的にも最年長ですから当然、『引退』の二文字も頭をよぎりました。自分の中にそんな気持ちはないけれど、周囲から『三浦はダメじゃないか』『もう勝てないのではないか』という声が聞こえてきてたので」
5月の連休を境に出勤地が横浜から二軍グラウンドのある横須賀に変わった。午前中に家を出て、練習後、夕方に帰宅するという生活。一軍の試合はできるかぎりテレビで観戦した。チーム状況はどうなのか、他のピッチャーがどんな投げ方をしているのか、つぶさに観察して夜を過ごした。
「そうすると、『もう一度あの場所に戻りたい』『一軍のマウンドで投げて勝ちたい』という強い気持ちがフツフツと湧き上がってくるんです」
成り上がるためだけを考えて
三浦の投球の生命線はコントロールと球のキレである。だが、去年あたりからそれがなくなってきたと自覚していた。そこでファームでは、監督、コーチ、トレーニングコーチと相談して、キレを取り戻す練習に専念した。「短距離走を重点的にやりました。これまでは長い距離を走ることで体を作っていたんですが、長距離は、例えば年配の人でもフルマラソンを完走できる。だけど50メートルや100メートル走は、年齢によってタイム差が大きいでしょう。つまり『落ちていく』というのは、そうした瞬発力が衰えていくことなんだと。横須賀では、50メートル、10メートル、3メートルなどの間隔にコーンを置いてダッシュする、それを徹底的に繰り返しました」
体がキレてくると、ボールも走り始める。ストレートが伸びて、コントロールがよくなった。二軍の試合でも、納得のいくストレートが投げられるようになり、結果も出た。
ところが、一軍から招集がなかなかかからない。若手や外国人投手は入れ代わりで一軍昇格していたにもかかわらず、である。
「あの頃は自分なりに手応えをつかんでいたし、調子がいいからいつでも呼んでくれという気持ちはありました。ただし、上げてもらえないからといってクサったりはしなかった。絶対に負けるものか、どんな状況でもやるべきことを見失わなければ、野球の神様がきっと見てくれる。そう思って強い気持ちで待っていました。負けず嫌いなんですよ、他人にも自分に対しても」
三浦は91年、ドラフト6位で奈良・高田商から横浜に入団。まだ球団名が「横浜大洋ホエールズ」の時代である。
高校時代は、奈良県予選で優勝した天理に敗れはしたものの、安定感抜群のピッチングで関西地区にその名をとどろかせていた。ただし、ドラフト6位という順位は、投手ならいくらでも欲しい球団が、保険のために獲得するケースがままある。
そんな〝期待薄〟の立場からチームのエースにはい上がったのは、この負けず嫌いの性格のおかげだった。
「入団した時は、奈良の田舎で野球やってきて、甲子園も出てないから全国レベルもわからない。それがいきなりトップレベルの集まりの中に置かれたわけですから、最初は練習についていくだけで精いっぱいでした。ただし、諦めたくないという気持ちは人一倍強かった。何をやるにしても中途半端が嫌だったんですね。
自分は他人より速い球を投げられるわけでもないし、凄い変化球があるわけでもない。そんな選手が、この世界で生き残るために何をすればいいか。練習しかないでしょう。練習してコントロールに磨きをかける。一つずつレベルを上げる。やればやるだけ手応えを感じられましたから、じゃあ追いつき追い越すためにはもっとやらなきゃならない、と。ドラフト6位で臆することはなかったけど、どうやって自分が成り上がるかを常に考えていました」
三浦は1年目にプロ初登板をすると、2年目の広島戦で初勝利をあげる。以来、19年にわたって毎年勝ち星を積み重ねている。
「打てるものなら打ってみろ」
負けじ魂は風体にも表れている。三浦のトレードマークといえばリーゼント。「番長」というあだ名もそこから付いた。
「高校時代はピッチャーはチームにせいぜい2、3人。それがプロでは20人以上いるわけじゃないですか。先輩に名前を覚えてもらうだけでも大変。それで何とか目立つようにあの髪形にしたんです。学生時代からの憧れでもありましたしね。この髪形はポリシーを持ってやってきたつもりだし、それは野球に対するこだわり、練習に対するこだわりにも通じると思うんです」
入団7年目の98年、三浦は日本一を経験する。シーズンイン前、権藤博監督(当時)に「開幕投手をやりたい」と直訴してその年12勝をあげ、「こういうヤツがいると助かるよ」と監督を喜ばせた。
04年には、アテネ五輪の日本代表の一員として銅メダル獲得。08年、FA権を獲得した時には岡田監督(当時)の熱心な誘いもあり阪神入りに傾きかけたが、最後は横浜残留を決めた。理由は、「どうしても縦縞のユニホームを着てベイスターズの選手と対戦する姿をイメージできなかった」というものだった。今シーズンに話を戻そう。
「投手というものは、いいところに投げられれば抑える確率、勝つ確率が高くなる。常時それができるように練習するんですが、年を取れば体はどうしても硬くなる。以前は右足を踏み込んで投げていたのが、知らず知らずのうちに踏み込みが足りずに体が開いてしまったり。これまでできていたことがだんだんしんどくなって、小手先に頼りがちになるんですね。そうならないように、全身の筋肉を隅々まで使って投げるように心がけています」
7月10日の今季初勝利のあと、三浦は同17日の阪神戦こそ4回もたずに降板したが、次の阪神戦(同31日)には6回を2失点とゲームを作り、8月7日の中日戦では勝ち星こそ付かなかったものの、7回無失点と好投。そして8月14日の中日戦で8回途中まで2安打に抑える完璧なピッチングを見せ、今季2勝目、通算140勝に華を添えた。
「投手たるもの打たれてマウンドで膝に手をつきたくないし、しゃがみこみたくもない。打たれることもあるけれど、俺はそれでも前を見て、向かっていく気持ちを示したい。自分の帽子にも書いているんですけど『Hit it if you can』=打てるものなら打ってみろ──常にその気持ちですよ」
チーム内で優勝の味を知っているのは、生え抜きでは三浦1人になった。だからこそ、後輩たちとそのすばらしさをもう一度、分かち合いたいと三浦は言う。
「98年に優勝した時は、ビールかけってこんなにいいものなのかと感激した。あの時は先輩に引っ張ってもらってできた優勝。今度は自分で引っ張って勝ち取りたい。欲張りなんですかね、引退するまでに、もう一度あの喜びを味わいたいんです」
周囲から聞こえてくる「引退」の声をはねのけられたのは、この強いモチベーションがあったからだ。
「それと女房の存在ですかね。『三浦大輔がこのまま終わっていいのか。そんな姿は見たくない』ときっぱり言われたんです。で、もういっぺん頑張ろうと。僕以上にしんどかったはずなのに、女は強いですよね。三浦家は僕がいなくても大丈夫だけど、女房がいなかったら回っていかないですから」
415日の地獄からはい上がった20年目のベテランは、今季初白星で生気がよみがえり、2勝目で確かな手応えをつかんだ。そんな三浦に球団は来季の現役続行を進言したという。