「本当にいいチームに入れてよかった」と寺原隼人は言う。横浜から移籍して、いきなりの快進撃。前半戦で10勝を稼ぎ3年ぶりにオールスターにも出場した。今も防御率ランクはベスト10をキープ。昨シーズン、4勝に終わった甲子園最速の剛腕は今年、何が変わったのか?
「年俸はどんどん下がって…」
8月20日の日本ハム─オリックス戦は斎藤佑樹と寺原隼人が先発。くしくも高校野球選手権決勝の日に、甲子園を沸かせた2人の投げ合いとなった。寺原は7回途中2失点と好投したものの、打線の援護がなく11勝目はならなかった。
夏の高校野球が始まると寺原は毎年、こそばゆいものを感じる。「甲子園最速の158キロ投手」(メジャースカウトのスピードガンが157.68キロを記録。球場表示の最速は154キロ)として、真っ先に自分の名前が取り上げられるからだ。
寺原は言う。
「高校の時はスピードを出すことだけしか考えていませんでした。力いっぱい投げるだけ、コントロールも悪かった。ただ、なまじ甲子園で松坂さん(大輔=レッドソックス)の記録(151キロ)を抜いちゃったものだから、何かにつけて松坂さんと比較されてしまう。プロに入った年は、あれがいちばんつらかったですね。入団1年目から活躍しまくった(16勝5敗)松坂さんに比べて、自分はそんなに結果は残せなかった(6勝2敗1S)。自分の中では頑張ったという手応えはあったんですけどね。いつも引き合いに出されるのがキツかったです」
今年の甲子園最速が唐津商・北方悠誠の153キロということを考えれば、寺原のスピードがいかに突出していたかがわかる。が、本人はそれが重荷になっていたようだ。
寺原がプロ入りした2002年のダイエーは、斉藤和巳、杉内俊哉、和田毅、新垣渚の4本柱を誇る投手王国だった。そんな中で高卒ルーキーがいきなり一軍登録されたのだから、今思えば大変な快挙だった。
「1年目6勝、2年目7勝とまあ順調に来て、3年目には当然2桁いけると自分も周囲も思っていました。当時は城島さん(健司=阪神)という凄い捕手に受けてもらっているという意識があったので、サインに首なんか振れなかった。城島さんには首を振れ、好きな球を投げろと言われていたのですが、ただもうガムシャラに投げるだけ。配球や緩急など考える余裕もなかったですね」
ところが、その後2年間は1勝もできなかった。思ったようにスピードも出ない。二軍暮らしが続き、「寺原はもうダメなんじゃないか」という声もささやかれていた。
「自分でも5年目にファーム暮らしだったら、もう来年は(契約は)ないだろうと思ってました。城島さんからは『腐るな、腐ったらおしまいだ。はい上がって来い』『二軍の生活に慣れるな』といつも励まされていました。そんな時に出会ったのがパーソナルトレーナーの山尾さんだったんです」
「山尾さん」とは、小久保裕紀、斉藤和巳、清原和博(元オリックス)らを担当して実績のあった、元プロ野球選手(西武)の山尾伸一トレーナーである。
「年俸もどんどん下がっているし、子供もいるから生活費のことも考えなきゃいけない。無理してパーソナルをつけて失敗したらどうしようと迷いもしました。でも、成功すればその何倍も返ってくるんだし、やってみないと何も始まらないじゃないですか。このままだと野球が中途半端に終わってしまうと思って、お願いすることにしたんです」
日南学園からドラフト1位で入団した時は、契約金1億円、年俸1500万円。03年オフには3600万円まで上がったが、その後の不調で年俸は減っていく。それでも寺原は、入団4年目の05年シーズン途中から山尾トレーナーと月30万円で個人契約した。そして翌年、2年ぶりに3勝して効果を自覚し始めたやさきに、待っていたのはトレード通告だった。
想定外だった2度目のトレード
相手はセ・リーグの横浜。主砲・多村との1対1のトレードは、スポーツ紙にも驚きを持って報じられた。
「こっちは2桁勝ったことがないのに、多村さんは実績ある4番バッター。釣り合わないと見られるのがつらかったですね。ただトレード自体は、チャンスだと思いました。ソフトバンクには4本柱がいるし、自分は5、6番手を争いながら、調子がよかったら投げられて悪かったらファームの繰り返しでしたから」
横浜の監督に就任した大矢明彦氏は、ソフトバンク・王貞治監督の早実の後輩。そういうつながりもあったのだろう、王監督は「それだけ評価されているのだから頑張れ」と寺原を送り出し、大矢監督は「なぜ、これまで2桁勝てなかったのかが不思議」と高評価で迎え入れた。その期待どおり、寺原はいきなり開幕投手に指名され、プロ入り6年目で初の2桁勝利となる12勝をあげる。
「もちろん翌年も連続2桁という目標があったんですが、チームの方針でシーズン途中から抑えになれと言われて。で、抑えになったらなったでリードしている場面がなかなか来なくて投げる機会がない。2週間とか平気で空いてましたから。逆にその2週間後に、勝っている場面で登板する時のプレッシャーといったら半端じゃなかったですね」
それでも22セーブポイントを上げ、翌年も抑えをやるのだと心の準備をしていたら、今度は先発に戻れと言われる。「俺の役目って何だろう」と自問自答しながらのプレーが続いた。結局、横浜移籍3年目となる09年は2勝7敗止まり。個人トレーナーの球場への入場が制限されたこともあり、山尾氏との契約も終了。まさにドン底だった。
光明がさしたのはそのオフ、大矢監督に代わって尾花高夫監督が就任した時だ。寺原にとってはダイエー時代の投手コーチ、恩師に当たるからだ。
「チャンスだと思いました。また先発投手として大成できるように指導してもらえると。だけど、ケガもあって先発やったり中継ぎやったりと、うまくいかなかった。尾花監督はコーチ時代と多少イメージが違いましたね。(前任の)巨人と横浜の投手陣じゃ違うんで、そのへんは大変なんだろうなとは思いましたけど。
島田誠コーチも尾花さんと一緒に横浜に入ったじゃないですか。ダイエー時代はコーチ同士、あれだけ仲がよかったのに、やはり監督とコーチの立場だと違うのかな。言わなきゃいけないこともあるだろうし、モメめているところも見たことあります」
尾花監督の1年目も横浜はセ最下位に沈む。寺原も4勝に低迷したままだった。そして昨年12月、またしても突然、トレード通告。「正直2回目のほうが焦りましたね。横浜が左の先発を欲しがっていることは聞いてましたが、『エッ、相手は俺?』みたいな。先発も中継ぎも抑えも全部やったし、2桁勝ってもいるので、まさかないだろうと思っていたので」
トレードはプロ野球選手の宿命とはいえ、引っ越しや転校を余儀なくされる家族は大変だ。
「嫁さんは子供のことを心配していました。横浜の幼稚園で友達ができていたし、その子たちと一緒に小学校に入学する予定だったので、かわいそうでした。でも、子供はたくましいですよね。今ではこっちの小学校に通って、もう関西弁使ってますから(笑)」
「この野郎」と思って投げた
岡田彰布監督率いるオリックスは前年、巨人にいた木佐貫洋が移籍して10勝をあげていた。寺原のトレードも、右の本格派が好きな岡田監督が二匹目のドジョウを狙ったという話も伝わっていた。相手は左腕の山本省を含む2対2。
トレード1年目が勝負と見て、寺原は2年間中断していた個人トレーナー契約を再開した。山尾氏に秋季キャンプへの同行を依頼し、12月のオフのメニューも組んでもらった。もう一度体幹から鍛え直していったのだ。おかげで岡田監督が、「スピード、キレとも申し分ない。期待しているけど無理はするな」とブレーキをかけるほどの仕上がりを見せた。
「いくら調子がよくても、試合で投げるまでは不安でしかたがなかった」
と言う寺原だったが、4月13日の移籍初登板で、不安はいきなり払拭された。古巣・ソフトバンク相手に9回106球で5安打完封してみせたのだ。
「これ以上ない成績でうれしくてしかたなかった。いきなり完封できるなんて想像もしていなかったですから。京セラドームは、実は横浜時代は苦手だったんです。移籍した年の開幕投手もここでやりましたけど、阪神に負けていたので」
その後、2試合黒星が続いて、土壇場に追い込まれた5月4日の日ハム戦で、武田勝との投げ合いを制し1対0の完封で2勝目。そこからまた2連敗するのだが、岡田監督が、これがダメだったら二軍行きの〝最後通牒〟を用意した5月23日の巨人戦で3勝目をあげ、そこから一気に7連勝している。
「巨人戦は今シーズンでいちばん印象に残っています。連敗中で、しかも巨人は先発として1度も勝ったことがない相手。9回まで1対1の同点で、2死から僕がバッターボックスに入るんですが、とにかくボールに食らいつきました。で、ファウルで9球粘って四球。後続の坂口がつないでくれて、山崎さんの3ランが出て勝てた。めちゃめちゃうれしかったですね」
次の登板では横浜にも勝って、古巣に借りを返すことになった。
「横浜との試合は、この野郎! と思って投げました。絶対に負けるわけにはいかないと覚悟して。次の横浜戦では山本(省)さんと投げ合ったのですが、この時はトレード同士なので、それこそ負けたら何言われるかわからないので気合いが入りました」
5年ぶりにパ・リーグに戻った感想を「本当にいいチームに入れてよかった」と語る。それは自身の調子がいいからだけではない。
「トレードっていいことだと思いますよ。トレードのおかげで先発1本で投げさせてもらっているし、2桁勝たせてもらった。もし、あのままソフトバンクに残っていたなら、今頃どうなっていたかわからないですね。トレードはチャンスをつかむために必要です」
オールスター第1戦の先発登板前には「10年ぶりの158キロ挑戦」に色気を見せた寺原だが、今はこう思う。
「スピードと勢いだけだった僕が、横浜時代には三浦(大輔)さんのピッチングから、緩急の使い方、低めへのコントロールの大切さを学んだ。ソフトバンクでは多くの先輩が、自分の体のために投資していた。これらのことを前の2球団で見られたことが財産になっています」
「未完の大器」は、プロ入り10年目、3つ目の球団で開花した。