13年に65歳で亡くなった大瀧詠一の、はっぴいえんど在籍中の1stソロアルバム発売(72年)から50年を記念し、11月25日、「大瀧詠一 乗合馬車 (Omnibus) 50th Anniversary Edition」がリリースされる。
大瀧は日本ポップス界の巨人として数多くのミュージシャンに影響を与えてきた一方、同時に、一世を風靡した後に埋もれた「名盤復刻」に尽力してきた。
そんな大瀧がプロデュースを担当し、93年に発売された4曲入りのミニアルバムが「meet the 東京ビートルズ」。演奏するのは「日本初のビートルズのコピーバンド」とのキャッチフレーズがつけられた「東京ビートルズ」だった。
64年に結成されたこのバンドのメンバーは4人。本物のビートルズ人気にあやかり、即席で結成されたため、4人のうち2人が楽器を全く弾けなかったというから、なんという時代か。
さらに、コピーバンドとは銘打っているが、当時はビートルズのようなビートを上手く解釈できるミュージシャンがいなかったため、演奏はジャジーな雰囲気に。しかも、弘田三枝子の「渚のデイト」や、黛ジュンの「砂に消えた涙」などの作詞者、漣健児が書いてきたのは「買いたい時にゃ 金だしゃ買える スカシタた色の 車も買える」「ランチキ騒ぎのダンスパーティーだ 羽目を外して歌おうよ」と、原詩とは全く関係ないどころか、本家が聴いたら卒倒するような歌詞のオンパレードだった。
ところが、こんな珍バンドのレコードに魅了されたのが、当時、日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)で、リマスター盤CD再発企画に参加していた大瀧だった。
92年、大瀧はニッポン放送のラジオ番組「ラジオビバリー昼ズ」のゲストとして出演。その際、同バンドの話題になり、MCの高田文夫が「本物のビートルズは日本武道館で、東京ビートルズも築地『松竹セントラル』の最前列で見た、歴史の生き証人だった」と知り、意気投合。番組で繰り返しシングル曲をかけたところ、大きな反響があった。結果、発売されたアルバムは、2万枚のヒットを記録することになったのである。
余談だが、東京ビートルズはシングル4曲を発売後、何を思ったのか、徐々に本格的志向のインストバンドへと移行。65年にはソノシート「ビートルズ特集16曲」に参加するなど、オリジナル色を強めていくが、エレキブームの中に埋もれ、67年に解散している。
今、音源を聴き返すと、そこには本家とは似ても似つかない捨て鉢なオーラはあるものの、ガレージパンクでもある。そんなエッセンスを嗅ぎ取り、面白がった大瀧の感性には、改めて脱帽させられるばかりだ。
(山川敦司)