今でも顔と名前が即座に浮かぶ──それが「80年代の黄金アイドル」の特性であろう。激烈な戦国時代を勝ち上がった裏には、どんな秘話があったのか‥‥。
「先生、私は歌手になって必ず成功するから!」
松田聖子(54)が福岡でレッスンを受けていた頃、平尾昌晃氏に堂々と告げた言葉である。
「歌手を『夢みる』子は多いが、自分が成功する姿を『イメージ』できる子は珍しかった」
さらに平尾氏は、聖子特有の「ビロードがかった声」も高く評価し、プロで成功するだろうと感じたそうだ。
そんな聖子と同期で、親友の間柄だった岩崎良美は、同い年とは思えないプロ意識に舌を巻いた。雑誌の対談で用意されたショートケーキを、良美は喜んで口にしたが、聖子は半分も食べなかった。
「良美ね、私、これ全部食べたら後悔すると思うの」
聖子が五十路を超えた今も、一度も太った姿を見せないのはそのためだ。
そして「トラック野郎」で知られる故・鈴木則文監督は、あの会見の裏にあったドラマを生前、明かしてくれた。
「郷ひろみと別れた『生まれ変わったら一緒になろうね』の号泣会見。あの直後に聖子の主演映画の撮影がスタンバイしていたんだよ。スタッフとテレビで会見を観ていて、これは撮影にならないだろうなと思った。ところが聖子は、満面の笑みで『は~い、皆さん、お待たせしました!』と現れたからね。すごい女だなと思ったよ」
その聖子と同じ80年組で、引退した今なお、絶大な人気を誇るのが河合奈保子(52)だ。デビュー翌年の81年10月5日、NHKホールのセリ下に転落し、あわや下半身不随になりかねない重傷を負った。
担当ディレクターだった古池鋭也氏は、それでも責任感を見せる奈保子の姿に驚いた。
「自分のせいでもないのに、僕たちに『ごめんなさい』と何度も泣くんです」
奈保子は入院を余儀なくされたが、当時のアイドルの「3カ月に1枚のシングル」というローテーションを守るため、極秘で病院を抜け出し、激痛をこらえてレコーディングを済ませたという。
そして、82年にデビューし、アイドルの域を超えた「歌姫」に君臨したのが中森明菜(50)だ。その伝説は、デビュー前の「スター誕生!」(日本テレビ系)から発揮されている。
「童謡を歌えとおっしゃいますが『スタ誕』は、童謡は受け付けてくれないんじゃないですか?」
顔が童顔だから童謡でも歌えと揶揄した女性審査員に対し、オンエアされていることも忘れて食ってかかったのだ。
明菜の所属事務所の社長だった花見赫氏は、数々のトラブルを含めて懐かしがった。
「明菜のエッセイ本に『私はバカだからバカな高校しか行けなかったの』と書いてあった。ゴーストライターが書いたものではあるけど、学校はカンカンだよ。明菜の代わりに謝罪に行ったことも、1度や2度ではなかったね」
2作目の「少女A」が大ヒットしてスターダムにのし上がるが、デビューしたばかりの新人がコトもあろうにレコーディングを拒否。同曲を作詞した売野雅勇氏が振り返る。
「タイトルの『少女A』が、自分のイニシャルだと思って歌おうとしない。これらは世代の総称だからとディレクターが説得して、何とかマイクの前に立たせた。あれだけイヤがっていたけど、一発でOKが出たから大したものだよ」
ライブで歌うことを含めた明菜の完全復活は実現するだろうか──。