カネを渡せば夜の街に出かけることは目に見えている。だが締め切りまでまだ3日ある。ギリギリまで考えると、1週間は大丈夫だ。そこで私は原稿料の封筒から万札を1枚取り出した。
「子供の小遣いじゃないんだから」
では、もう1枚。
「そんな殺生な。お願い、お願い」
「これ以上は絶対に出せません」
3万円だけ手渡す。夜中には帰ってくるだろうと高をくくったが、甘かった。その後毎日、独り住まいの自宅に夜討ち朝駆け、ドアに貼り紙をするが、帰ってこない。4日、5日、6日‥‥。窓から侵入するかドアを蹴破るか、とにかく力ずくで侵入して、完成した44枚と下半分白地の最終ページを製版所に持ち込もうと決意を固めて7日目の朝に訪ねたところ、完成した画稿を揃え、本人が笑顔で出迎えてくれた。6日間、女性宅にしけ込んでいたらしい。
こうした漫画家と編集者の奇妙な関係は、昭和初期の貸本屋時代、あるいは紙芝居時代に原型が作られたといわれる。貸本屋が隆盛を極めたのは昭和30年代前半。当時は東京だけで3000軒、日本全国に3万軒ほどあったという。
当時の漫画単行本の価格は120~150円ほど。現代価格に換算すると1000円とか1500円くらいで、子供が手にできるものではない。貸本屋だと1冊1泊3~5円。だから子供は貸本屋に通い、貸本屋はボロ儲けした。貸本漫画業界は人気作品を求め、主人公は何者でストーリーをどうするかは貸本屋が決め、それを版元に求める。版元はその要望に沿って、漫画家に作品を描かせたのだ。
貸本屋が栄えた時代は同時に、紙芝居の時代でもあった。紙芝居は子供相手の大道芸である。1回10枚前後の絵を芸術的な語り口調で見せるのだが、システムとしては貸元の下に原作者と画家、そして紙芝居屋がいた。貸元は原作者と画家に作品を発注するのだが、中には原作と画を1人でこなす作者もいた。若い頃の水木しげるがこれだ。出来上がった作品は貸元から紙芝居屋に渡り、各地域で公開される。
どんな内容の作品がヒットするか、どの原作者に依頼し、誰に絵を描かせるかを決める貸元の仕事に、編集者業務の片鱗が見えるが、これが今日の漫画編集者の原型だろう。外国には類例のないこの方式が、日本漫画を世界一に仕立てたともいえる。
実はこの貸本は江戸時代前期に存在していた。江戸時代に浮世草子や黄表紙と呼ばれる本があった。今日の雑誌のようなものだ。本屋はこれを売ってしまうと商売が終わる。売るより貸したほうが儲かるというので、貸本業が成立したのだ。
志波秀宇(しば・ひでたか)<漫画 研究家>:昭和20年東京生まれ。早大政経学部卒。元小学館コミックス編集室室長。元名古屋造形大学客員教授。小学館入社後、コミック誌、学年誌などで水木しげる、手塚治虫、横山光輝、川崎のぼるなどを担当。先頃、日本漫画解説の著書「まんが★漫画★MANGA」(三一書房)を出版した。