百恵・友和コンビの映画は、第1作の「伊豆の踊子」(74年、東宝)に始まり、文芸路線が基調だった。ドル箱の興行成績を誇ってはいたが、10作目の記念でもあり、あえてストーリーを一般公募するという試みがなされた。そして「ホワイト・ラブ」というタイ...
記事全文を読む→山口百恵
クライマックスの撮影を迎える前に、河崎は百恵に聞いてみた。「あなたは、愛のために死ねますか?」百恵は5分ほど沈黙し、そして神妙な表情で答えた。「それは‥‥とても難しいことだと思います」物事に対して浮ついた考えをしない百恵らしい返答だった。と...
記事全文を読む→映画が斜陽と呼ばれた70年代でも、暗闇から見つめるスクリーンには幻想的な輝きがあった。とりわけ「女優」が放つ光は格別のものだった。山口百恵は古典的なやまとなでしこを、桜田淳子は現代的な日本女性を演じ、ともに繁忙期の興行に欠かせぬ顔となってい...
記事全文を読む→「この子は絶対に伸びていくから、早めに主役にしたほうがいいよ」脚本家のジェームス三木は、プロデューサーの春日千春に“ジャブ”を放った。ただ進言するだけでなく、百恵の出番を多くするようなシナリオに書き換えていったという。それは、70年代のドラ...
記事全文を読む→今のように「分業制」ではなく、70年代のアイドルはレコード、ドラマ、映画、グラビア、バラエティの全てをこなした。そして山口百恵と桜田淳子は、女優というジャンルにおいても非凡な才を発揮する。テレビが一家のものであった時代、2人は「ドラマ」で多...
記事全文を読む→伊藤は淳子、岩崎宏美とともに「阿久悠門下生」の位置づけとなる。百恵と阿久悠は最後まで縁がなく終わったが、この3人はデビューから長らく、作詞だけでなくトータルのプロデュースでも指示を受けた。「僕からそれぞれのマネジャーに言っておくから」阿久の...
記事全文を読む→73年にデビューした百恵と淳子は、その年から70年代の終わりまで人気のトップを争った。時代の象徴である両者に引っ張られるように「同期」の、そして「同学年」の歌手たちが奮起し、黄金の世代を作り上げる。それは歌謡界が最も熱く、幸福だった日々のこ...
記事全文を読む→70年代の芸能界は、圧倒的に「歌謡曲」が主軸であった。レコードの売上げだけでなく、テレビも地方営業も、すべては「歌手ありき」で芸能界が動く。そして73年、渦中にデビューした百恵と淳子は、あっという間に主役の座を射止める。それを支えたのはレコ...
記事全文を読む→桜田淳子は「わたしの青い鳥」で73年のレコード大賞・最優秀新人賞を獲得。予選の時点からかぶっていた帽子は「エンゼルハット」と呼ばれ、トレードマークになった。アイドルとしても、タレントとしても非の打ちどころがなかったと萩本は回想する。「番組の...
記事全文を読む→72年10月15日、百恵は「スタ誕」の予選に出場した。神奈川・横須賀生まれの13歳の少女は、まだ純朴だが、どこか大人びた一面も見せた。萩本は、少女のたたずまいに不思議な気配を感じた。それは淳子を初めて見た時と真逆の感想だった。「ゲストに西城...
記事全文を読む→全国から若い少女が集まり、誰もが見守る前で「スター」の座を目指す。今では当たり前の光景であるが、その歴史は意外と新しい。73年にデビューした桜田淳子と山口百恵─この2人こそ、後のアイドルブームの起爆剤となった。芸能界が真に輝いていた70年代...
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