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72年10月15日、百恵は「スタ誕」の予選に出場した。神奈川・横須賀生まれの13歳の少女は、まだ純朴だが、どこか大人びた一面も見せた。萩本は、少女のたたずまいに不思議な気配を感じた。それは淳子を初めて見た時と真逆の感想だった。
「ゲストに西城秀樹くんや野口五郎くんがいても、彼女はキョロキョロするでなく、じっと後ろから見つめているのね。そのまなざしを3メートルくらい横から見ちゃった。その瞬間、この子には有名になってほしいと心から思ったね」
萩本によれば、予選で1番に輝いていたのが淳子、2番目は会場の得票だけで合格ラインに達した石野真子、そして最も輝いていなかったのが百恵だった。
それでも、今の言葉で言う「ブレていない」姿勢は感じた。萩本は番組スタッフに「あの子は何か背負っているものがあるの?」と聞いた。
「母親と妹の3人で暮らして、新聞配達で家計を助けています」
萩本は、同情とは別の部分で、その執念を理解した。立っているだけで哀愁を感じさせ、この子が有名になることで幸せになるなら後押ししたいと思った。
「それは百恵ちゃんと清水由貴子(09年に自殺)の2人だけだったね‥‥」
72年12月、決戦大会に進んだ百恵に20社のプラカードが上がり、無事に歌手への糸口が見つかる。所属は森昌子と同じホリプロで、レコード会社はCBS・ソニーに決まった。
その準備の期間に、萩本は番組の審査員であり、初期の百恵の曲を数多く手がけた都倉俊一からこんな話を聞いた。
「僕がピアノでレッスンをつけると、ほとんどの女の子は音を上げて泣き出す。ところが1人だけ泣かない子がいて、それが百恵。あれは見つめているところが違うのかな。とんでもない子になるかもしれない」
73年5月、百恵は「としごろ」でデビューした。淳子より3カ月遅かったが、前年デビューの森昌子とともに「中3トリオ」を組むことになる。
3人より学年で3歳下の筆者は、デビューから1カ月は「スタ誕」で披露される百恵の姿を追った。後楽園ホールの客席に立って歌う「としごろ」は、まだ1オクターブ半しか音域がなかったらしく、たどたどしくはあったものの、清潔感に満ちていた。あの時代の誰もがそうであったように、中3トリオの新曲が出るたび、テレビやラジオで夢中になって追いかけた。
そのデビュー直後、萩本は意外な一面を知る。
「デビュー曲コーナーに出ることになると、司会の僕のところに挨拶に来るわけ。ところが百恵ちゃんは来なかった。あとで聞いたら、自分はそんなに有名になれない。たぶん1曲歌ってサヨナラだから、挨拶に行ったら逆に失礼にあたる─そんなことを思っていたらしいのね」
1曲どころか、百恵は写真家・篠山紀信が「時代と寝た女」と評したほどの人気を獲得していった。
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