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記事全文を読む→百恵と淳子、大本命はアグネスだった
73年にデビューした百恵と淳子は、その年から70年代の終わりまで人気のトップを争った。時代の象徴である両者に引っ張られるように「同期」の、そして「同学年」の歌手たちが奮起し、黄金の世代を作り上げる。それは歌謡界が最も熱く、幸福だった日々のこと─。
73年12月31日、東京・帝国劇場の舞台に並んだ美しい娘たち‥‥。「涙の太陽」の安西マリア、「赤い風船」の浅田美代子、「みずいろの手紙」のあべ静江、「草原の輝き」のアグネス・チャン、そして最年少で「わたしの青い鳥」を歌う桜田淳子─。
50年を超える「日本レコード大賞」の歴史でも、これほどヒット曲が並んだ新人賞レースは数少ない。
5人の中で最年長だったあべ静江は、ちょうど40年前の激戦を振り返る。
「本当に慌ただしい時間の中の1コマ‥‥私にとってはそんな感覚でした。歌手であることをアルバイトのように考えていた私は、最優秀新人賞を獲れるとも思っていませんでしたね」
あべは歌手デビューの前から、名古屋のラジオDJとして絶大な人気を誇っていた。父親がラジオ局の専属バンドマン、母親が専属歌手、あべ自身も少女歌手だった時期があり、スカウトされてレコードデビューしたのは自然な流れに違いなかった。
70年代当時、多くの歌手は「スカウト」によって芸能界の門をくぐった。あべも、安西も、浅田もそうであり、香港で活躍していたアグネスもまた「日本にスカウトされた身」だ。そんな風潮に一石を投じたのが桜田淳子や山口百恵が登場した「スター誕生!」である。あべは、彼女たちの迫力にたじろいだ記憶があると言う。
「オーディションを勝ち抜いてきた人たちは、私たちとは目線が違っていました。アグネスにしたって、祖国を離れて日本に来ているという決意がありましたよ」
あべは73年5月に「コーヒーショップで」でデビュー。同じ月に百恵も「としごろ」でデビューを飾る。
当時のテレビ界は局ごとに新人オーディションがあり、これを通過しないと歌番組に出られない。あべはデビュー日の近い百恵や水沢アキ、沢田亜矢子らとテレビ局を回った。
「一度だけ百恵ちゃんと同じ楽屋になったことがあって。彼女はひっそりと楽屋の隅に座り、うず高く積まれたレコード会社のチラシに、黙々とサインしていたのを憶えています。私より7つ下なのに、そう感じさせない大人の雰囲気がありました」
もう1人、同期である淳子に対しては、性格から歌い方まで「ひと筋」という印象が強い。数多い歌番組で顔は合わせるが、当時のリハーサルは代役の歌手が音合わせをし、あべや淳子らの売れっ子は本番だけ歌うというスタイル。コミュニケーションと呼ぶにはほど遠い日々だった。
やがて秋の深まりとともに歌謡界は賞レースに突入する。あべはデビューから2曲続けてベストテンヒットを記録していたが、事務所がチューリップや甲斐バンドと同じロック系だったため、賞獲りの事前運動とは無縁だった。
「私はアグネスが獲るんじゃないかなと予測していました」
アグネスはデビューから3曲続けてベストテンに入り、勝負曲の「草原の輝き」も50万枚に迫っていた。芸能界の最大手・渡辺プロに所属し、大本命の座は揺るがないはずだった─。
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