大平派最高幹部の鈴木善幸が、派閥領袖(りょうしゅう)の大平正芳の急逝により総理のイスにすわったのは、ロッキード事件にもまれ、なお影響力温存を窺った時の最大派閥の領袖、田中角栄の意向によるものだった。田中と鈴木は、昭和22(1947)年4月の...
記事全文を読む→大平正芳
この「40日抗争」に一応のピリオドが打たれたあとの第2次内閣でも、「反主流」の3派はホコを収めず、それから約半年後の5月には社会党が提出した内閣不信任決議案の本会議採決で、福田、三木の両派が欠席(中曽根派は一応出席)、ために不信任決議案は2...
記事全文を読む→「アイツは宗教家だから、ワシらが動くしかない」「盟友」大平正芳が初めて名乗りを挙げた昭和53(1978)年11月の自民党総裁選で、田中角栄は田中派を総動員させ、「大平勝利」に全力投球した。首相退陣後、ロッキード事件が発覚、「闇将軍」としてな...
記事全文を読む→大平は初出馬では田舎のジイサン、バアサンにクソ面白くもない財政問題を懸命にしゃべったが、いかにもカタい話すぎて聴衆はシラケるのが常だった。「笑顔だけはステキ」と妙に婦人票が集まって、からくも当選を果たしたのだった。しかし、2回目の選挙では笑...
記事全文を読む→戦後の総理大臣で初めて在任中に死去した人物が、この大平正芳であった。その「胆力」、リーダーシップは、多くの総理大臣がそうであったようないわゆる大言壮語的なものはまったく窺えず、「歩留(ぶどま)り」を低く設定するという重心の低さが特徴であった...
記事全文を読む→しかし、一方で「安定成長」を旨とする志と異なり、政権を取った直後の次年度予算案は景気回復が要求されており、景気刺激策として苦渋の赤字国債の大量発行を余儀なくされた。また、折から日本赤軍による日航機ハイジャックという「ダッカ事件」が発生、乗員...
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