父親は元総理大臣の福田赳夫で、憲政史上初の「父子総理」として登場したのが福田康夫であった。しかし、政権取りにギラギラしたところがなかった父親に似たか、政権意欲が乏しかったのがこの康夫であった。なぜなら、元々、政治家になる気がなかったからにほ...
記事全文を読む→福田赳夫
東大法学部卒の“巣窟”にして、並み居る省庁の中でも「エリート中のエリート官庁」とされているのが財務省(旧・大蔵省)だが、「省史」を紐解いてみると、その中でも、さらに飛び抜けての秀才が、二人浮上してくる。ともにのちに総理となる福田赳夫と、この...
記事全文を読む→しかし、一方で「安定成長」を旨とする志と異なり、政権を取った直後の次年度予算案は景気回復が要求されており、景気刺激策として苦渋の赤字国債の大量発行を余儀なくされた。また、折から日本赤軍による日航機ハイジャックという「ダッカ事件」が発生、乗員...
記事全文を読む→戦後の大蔵省(現・財務省)史をくくってみると、飛び切りの秀才はどうやらこの福田赳夫と宮澤喜一の二人となりそうだ。同省関係者で、それを否定する者もほとんどいない。その頭脳明晰な福田のトップリーダーへの道は、徹底した「王道」志向であった。政界入...
記事全文を読む→昭和47(1972)年7月誕生した田中角栄内閣は支持率62%、不支持率10%(朝日新聞)という当時としては驚異的な数字を得ての登場だった。時に、田中は54歳と戦後総理として最年少であり、加えてそれまでの総理が官僚出身のエリートだったのに対し...
記事全文を読む→佐藤退陣後、熾烈な総裁選を経、田中角栄が福田赳夫を破って後継の政権となった。総理の重責から解放された佐藤は、妻・寛子のさしがね、服飾デザイナーの森英恵のアドバイスもあって、当時、流行の長髪にイメージ・チェンジをするなど、政権時とは打って変わ...
記事全文を読む→「黙々栄作」の異名どおり、口数少なく、重心を低くしての長期政権7年8カ月で悲願の「沖縄返還」を実現させた佐藤栄作のリーダーシップを支えたのは、絶妙極まる「佐藤流人事」であった。その人事の基本原理は、「チェック・アンド・バランス」というべきも...
記事全文を読む→1月6日、7日のサンクレメンテ会談が終わった後、佐藤総理ら代議士、新聞記者団を含めた全員が泊まっている宿舎に、ニクソン大統領はじめ、アメリカ政府の要人たちがやって来た。そこで記者たちは、田中と福田の違いをまざまざと見せつけられることとなる。...
記事全文を読む→72年(昭和47年)1月5日午後3時、佐藤総理をはじめとする日米首脳会談に出席するメンバーは、雨の中、羽田空港を日航特別機で出発した。田中系、それに福田系の1、2年生議員らに記者団を含めた30人近くが乗りこんだ。政治記者は福田派が4人、田中...
記事全文を読む→ついに、田中角栄は、政界の頂点・総理大臣に狙いを定める。だが、目の前にライバル・福田赳夫が立ち塞がり、田中はアメリカを舞台に大きな賭けに出る。田中の圧倒的なパフォーマンスは人々の心をつかみ、逆境を覆す。この胆力こそが、男の野望を実現する原動...
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