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記事全文を読む→織田信長の遺品を整理した側室「お鍋の方」の劇的人生
天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変で明智光秀に討たれた織田信長の位牌を安置、菩提を弔ったのは側室・お鍋の方、のちの興雲院という人物だ。彼女はまさに、波瀾万丈の人生を送った。
天文十四年(1545年)、近江の小城主・高畠新二郎の娘として生まれ、小倉右近大夫賢治に嫁いだ。小倉甚五郎、松千代という男子2人をもうけている。
賢治は六角義賢の家臣だったが、信長と交流を持っていた。元亀元年(1570年)、朝倉攻めを行っていた信長は、義弟・浅井長政の同盟破棄により、窮地に立たされる。この時、京都への撤退ルートを支援したのが賢治だった。
だが、この一件が問題となり、主の六角氏に攻め込まれてしまう。そして永禄八年(1565年)、切腹を命じられ、この世を去る。2人の息子は六角氏の配下・蒲生賢秀の人質となった。
夫を亡くした上、息子まで奪われたお鍋の方は、当時の資料によれば「奔播狼狽」、つまり半狂乱になった。
ここで手を差し伸べたのが、京都への撤退を恩義に感じていた信長だった。信長は2人の息子を取り戻した上、織田家の家臣として迎え入れた。
さらに、お鍋の方を自らの居城がある岐阜に住まわせ、その後は側室とした。安土城へ拠点を移った後は実質的な御台(正夫人)として奥向きを取り仕切り、信長との間に信吉、信高、於振の2男1女を産んだ。
本能寺の変後は即座に陣頭指揮を執り、女性と子供を待避させた上、嫡子・信忠の居城・岐阜城に出向いて、残っていた信長の遺品を整理。そのまま美濃の崇福寺へ行くと位牌所として定め、霊廟と墓の建立を決めている。
この時、「いかなる者の違乱も許さない」とお鍋の方が自筆で、この寺の住職に命じたという。本能寺の変では前夫との間に生まれた小倉松千代も死亡しているが、その悲しみも押し殺し、実質的な喪主の働きをしている。
天正十年(1582年)、羽柴(のちの豊臣)秀吉が京都・大徳寺で信長の葬儀を執り行い、境内に墓を建てる。だが、信長と信忠の位牌、遺品はお鍋の方により、崇福寺に納められた。一時は秀吉から近江国神埼郡に500石の化粧領を与えられたが、関ヶ原の戦い後に取り上げられ、困窮。淀殿と、秀吉の北政所(ねね)から知行を与えられ、慶長十七年(1612年)6月25日、京都で死去した。
(道嶋慶)
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