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記事全文を読む→家康激怒!二日酔いで戦に敗北し「酒封じの神」となった戦国武将
戦国武将・本多忠朝は、徳川四天王として名高い本多忠勝の次男で、上総大多喜藩5万石の第2代藩主だ。
忠朝は父の名前に恥じない勇将で、初陣となった慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、刀が曲がって鞘に収まらなくなるほど、暴れ回ったという。
人格者でもあり、慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴ率いるスペインの戦艦「サン・フランシスコ号」が航海中に難破した際、乗務員317人を手厚く保護したという記録が残っている。また、領地の新田開発を奨励するなど、名君の誉れも高かった。
ただ、忠朝には無類の酒好きという欠点があり、それが元で、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では、深酒のせいで二日酔いだったため、敵の猛攻の前に敗走。徳川家康からきつく叱られたという。酒好きが災いして、やらかしてしまったわけだ。
現代でもそうだが、酒を飲んでの失敗は言い訳にならない。忠朝は汚名をすすぐため、翌年の大阪夏の陣の際、天王寺・岡山の戦いで徳川方の先陣を買って出て、敵方・毛利勝永軍に正面から戦いを挑んだ。だが、敵軍から狙撃を受けて落馬。それでも戦い抜いたが、最終的に全身20カ所以上の傷を受けて戦死したと伝わっている。
死に際に忠朝は「憎むべきは酒なり。今後、わが墓に詣でるものは、必ず酒嫌いとなるべし」と遺言したと伝わっている。
そのため、忠朝は「酒封じの神」として祀られるようになった。墓所は大阪市天王寺区の「一心寺」にあるが、禁酒を誓う人が墓所にシャモジを奉納しているという。
天王寺・岡山の戦いで生き残った部下たちには、家康から感状(賞状のようなもの)が与えられたという。
家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝は大和郡山藩15万石の藩主となった。忠朝の名誉は十分に回復されている。
(道嶋慶)
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