社会
Posted on 2025年10月12日 18:02

奇跡の脱北起業家〈第3回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(3)素人学生がマンション建設に

2025年10月12日 18:02

 最愛の父の死。後ろ盾を失い、ヨンヒの前途は曇りだす。だが、涙にくれるいとまもなく、またも命令が下る。平壌の10万世帯マンション建設にエリート学生も駆り出されることになった。金日成生誕100年を迎える2012年4月15日までに完工せよ、と。さすがのヨンヒもあきれた。割り当てられたのは2地区での15階〜40階建てマンションや堤防工事など。

「笑ってしまいますが、建設資材がまったくないんです。『お金を出せば、娘さんは労働党員になれますよ』みたいなことを言って保護者のポケットマネーを狙う。それを信じた親たちが先を競ってお金を寄付し、セメントや砂、鉄骨を買ったんです」

 建設に慣れた軍人ならいざしらず、素人の学生がマンション?

「軍と合体でやるんです。私たちはペンをスコップに持ち替え、地上でセメントを練り、2人で30階、40階まで運ぶ。スコップで階上へ放りなげたりもしましたよ。おかげで腕にすごく筋肉がついちゃって。事故も多く、私のクラスには左手の指の骨が砕けた学生がいたし、ひとつ下の平壌外国語大の学生は30階から転落し、死んだと聞きました。冬はセメントが固まらず、ドラム缶で火をたく。とにかく急げ、速度戦だ、と。結局、期日までに間に合わず、私たちの大学卒業は1年、そしてもう1年半、都合2年半も延長されてしまうんです」

 身の丈にあわぬ平壌の高層マンション建設ラッシュは金正恩の見栄にほかならなかった。スイス留学の経験がある彼は、旧ソ連ふうの古めかしいアパートが建ち並ぶ首都の面貌を一新したかったのだ。ヨンヒが苦笑いする。

「あとで私たちが建てたマンションを見に行ったら、壁はヒビだらけで。住みたくなかった。高層マンショで人気があるのは2階、次は3階、停電ばかりでエレベーターは使えず、高層階は地獄なんですよ。階段の上り下りだけでなく、水は出ない。トイレもまともに使えない。(アメリカの)マンハッタンになぞらえ、ピョンハッタンなんて表現がありますが、その実態はあまりにお粗末。そうそう、私の大学の近くにあった23階建てのマンションが崩壊したこともありました」

 2011年12月17日、脳卒中からの回復もままならず、痩せ細っていた金正日が死去する。暮れの12月28日、雪の降りしきる平壌で永訣式が執り行われた。建設労働中だったヨンヒもクラスメートと葬列を見送った。

「亡くなるとただちに街角に大きな肖像画が掲げられ、学生が交代で見守るんです。一日中ずっと。足はしもやけ、ほっぺは凍って。葬列が近づいてくると、将軍さまの行く道に雪があってはいけないから、とみんなコートなどの上着を脱ぎ、道に敷き詰めるんです。私も脱ぎました。涙は出ないけど、ウオー、ウオーと声だけ出しました」

 名実とも金正恩が権力を握る。開かれたニューリーダー像をアピールするため2012年夏、破格の音楽グループが誕生する。「牡丹峰楽団」だ。韓国のK‒POP、ガールズグループを意識し、若い女性がミニスカート姿で歌い、踊る。ステージにミッキーマウスが飛び出し、ハリウッド映画「ロッキー」のワンシーンも映しだされた。同じころ、堤防工事を終えたヨンヒはオープンまじかの綾羅人民遊園地の仕上げに追われていた。

「なぜか『芝をきれいにしろ』が至上命令で。わざわざイタリアの芝が選ばれ、種を取り寄せ、育てたんですよ」

 遊園地は平壌の大同江を流れる中州にある。メインはイルカショーが楽しめるイルカ館、各種プールや絶叫マシンもそなえた総合レジャーランドだ。完工セレモニーにヨンヒはクラスメートとチマ・チョゴリで着飾って出かけた。金正恩も出席する「1号行事」であるとは承知していた。遠くから金正恩、そして幹部らが歩いてくる。あちこちからマンセー(万歳)の声が響く。まるで祝祭。

「『えっ』と目を見張りました。金正恩はわずか10メートルのところまできたんですが、女性と腕を組んでいる。李雪主夫人でした。まわりの雰囲気につられ、私も飛び跳ね、マンセーをしてしまうんです」

 思えば、ヨンヒは金正恩のデビューを演出するために貴重な青春をささげたのかもしれない。学生なのに勉強できない。中世の王朝のごとき独裁国家、理不尽すぎる国に生まれた不幸を呪いもしたが、かといってヨンヒは絶望しない。矛盾と葛藤にもだえつつ、済州島の女の強さをひめた根っからの楽天家だからだ。

鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。

写真/初沢亜利

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