近衛文麿退陣後、日米開戦を決断、「悪の権化」視された東条英機が総理大臣に就任するまで、次のような政権の動きがあった。近衛文麿の第一次内閣が、「日独伊防共協定」の強化問題などの難航で政権を放棄したあと、近衛の強い推薦で後継総理となったのは、わ...
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近衛は、白皙の秀才だった。家柄は「五摂家」の中でも九条と並んで格が高く、ちなみに他の一条、二条は九条の、鷹司(たかつかさ)は近衛の分家となる。一高から東大哲学科に入ったが講義内容に飽き足らず、京大法科に入った。ここで、河上肇、西田幾多郎らか...
記事全文を読む→「近衛は弱いね」と、A級戦犯として東京裁判の軍事法廷に引き出される直前に服毒による自死を図った近衛文麿に対し、報告を受けた昭和天皇はポツリと言った。その遺書(昭和20年12月15日に記した2男宛)の一部には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが...
記事全文を読む→遺体発見の前日にしたためられたと見られる昭和20(1945)年12月15日の2男宛に残された遺書には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが、いま軍事法廷に引き出されることへの屈辱感が、次のように記されている。一切の弁明をせず、文官として唯一人、...
記事全文を読む→昭和7(1932)年の「五・一五事件」で暗殺された前回の犬養毅までが、原敬から数えて約14年間の戦前のわが国の政党内閣の時代であった。その後、キャリア外交官一人をはさんで三人の陸海軍出身の総理大臣が登場したが、強まる軍部の圧力、ファシズムの...
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