遺体発見の前日にしたためられたと見られる昭和20(1945)年12月15日の2男宛に残された遺書には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが、いま軍事法廷に引き出されることへの屈辱感が、次のように記されている。
一切の弁明をせず、文官として唯一人、従容として絞首台に消えた2代前の広田弘毅の責任の取り方とは、大きな差があったとともに、そこには近衛のリーダーとしての性格の弱さを窺うことができる。
「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国法廷に於て裁判を受ける事は、堪(た)え難いことである。殊(こと)に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う。(中略)」
この近衛自殺の報告を受けた昭和天皇は瞑目したあと、ポツリと言ったそうである。
「近衛は弱いね」
また、当時の新聞も一国のリーダーたる者は、その神経のこまやかさの一方で、ある種のず太さがなければ務まらないとも指摘した。例えば、毎日新聞(昭和20年12月18日付)は、
「(近衛)公の性格はその弱さと反省的なところが、悲劇の主人公に出来ている。つまり、疾風怒濤時代の政治家として、公はすべての欠陥を暴露したのだった。公を大政治家気取りにさせたところに、時代の責任がある。いわば、(公は)家柄にない役を演じた」
第1次内閣をスタートさせた直後、近衛は高らかに「国際正義に基づく真の平和を希求する」と声を上げたものだった。しかし、その1カ月後に「盧溝橋事件」が勃発すると、これを機に次々と失態をみせるのだった。
近衛に対する評価は、多く「軍部に抗したリベラリスト」とする一方で、「安易なポピュリズムのもとで国の行方を誤らせた戦犯」といった見方に二分されている。その人間性と合わせ、“失態史”は次回で。
■近衛文麿の略歴
明治24(1891)年10月12日、飯田橋生まれ。京都帝国大学在学中に世襲で貴族院議員。貴族院議長、訪米してフーバー、ルーズベルトの前・現大統領らと会見。大政翼賛会総裁をはさみ内閣組織。総理就任時、45歳。昭和20(1945)年12月16日、毒物により自殺。享年54。
総理大臣歴:第34代1937年6月4日~1939年1月5日、第38・39代1940年7月22日~1941年10月18日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。