アストロズの今井達也がオープン戦2度目の先発マウンドに上がったのは3月6日だったが、2回被安打1四球3奪三振と好投した。「30球を投げて19球がストライク。制球力が高いという前評判の通りでした」(現地記者)同時に聞こえてきたのは「意外な評価...
記事全文を読む→百恵と淳子、モモさんと「ひとつ屋根の下」
73年2月25日、今から40年前に桜田淳子は「天使」のイメージでデビュー。その3カ月後の5月21日、「人にめざめる14才」のコピーで山口百恵も続く。前年にデビューした森昌子と合わさって「花の中3トリオ」が生まれ、芸能界の可憐な活性剤となった──。百恵と淳子に交差する森昌子が、かけがえのない友への思いを語りかける。
71年10月3日に始まった「スター誕生!」(日本テレビ)は、企画した阿久悠や池田文雄プロデューサーの思いをよそに、最初のスターにたどり着けずにいた。番組のコンセプトも定まらず、どんな素材を推すべきか模索が続く。
ここに登場したのが13歳の森昌子だった。幼い頃から引っ込み思案の性格で、歌は好きだが歌手になるとは夢にも思わなかったと昌子は言う。
「親戚に『中学入学のお祝いにデパート行こう』と言われて、行ってみたら『スタ誕』の予選会場だったんですね。それから2次予選まで行って、気がついたらテレビで歌っていました」
阿久悠が晩年に、予選の昌子を見た瞬間の感想を伝えている。
「こいつだ! この方向だ。若年層を狙うんだ!」
番組のコンセプトが固まり、翌72年にデビューした昌子の「せんせい」が50万枚を超える大ヒットを記録したこともあって、応募者の年齢が一気に若くなる。そして続いたのが桜田淳子だが、昌子も予選から注目していた。
「ダイヤモンドの原石ってこういうものなのか、彼女は絶対に受かるなって理屈抜きに思いました」
昌子が新人賞を立て続けに受賞した72年の暮れ、三本目の矢として「スタ誕」の決戦大会を制したのが山口百恵である。20社のプラカードから百恵が所属先に決めたのは、昌子と同じホリプロであった。
さらに年が明けてすぐに、堀威夫社長(当時)から“指令”を受けた。
「昌子、悪いけどしばらく百恵を下宿させてくれ」
まだホリプロにタレント寮がなく、横須賀に住む百恵を港区に住む昌子の家に住まわせたのである。さらに昌子の仕事先にも「付き人」のような形で勉強のため同行させた。
「私は一人っ子だったから、姉妹ができたみたいですごくうれしかった。私の四畳半の部屋に百恵ちゃんと2人、ずっと夜中もおしゃべりしていました」
芸能界では昌子のほうが先輩だが、すぐに百恵が「頼れる存在」となった。昌子は百恵のオーラに「守られている」という感覚を持ち、やがて「モモさん」と呼ぶようになった。
「あの年齢で人の家に住みこむのは、私だったら無理。モモさんはそれだけでもすごい。40日くらい同居してましたけど、すごく楽しかったですね」
昌子のデビュー当時はまわりが年上の歌手ばかりで、楽屋でもポツンとしていることが多かった。そこに淳子や百恵が、さらに同世代の歌手が次々とデビューし、楽屋が花ざかりになっていく。
やがて「スタ誕」のさらなる目玉として、3人を「花の中3トリオ」と命名するようになった。
「正直、不思議な名前だなって思ったんです。中3トリオって‥‥そのままというか、間違ってはいないですけど、それぞれの名前をつけてもいいのにって思ってました」
その違和感はほどなく消え、仲のいいトリオは歌謡界の中枢へ駆け上がっていった。
アサ芸チョイス
最近のカルチャーシーンにドーンと鎮座するものに「昭和レトロ」がある。とりわけ主婦層の間では昭和歌謡や復刻家電、駄菓子風スイーツなどがSNSで大きな話題となり、「推し活」の一環としてグッズを集める動きが拡大している。しかし同じ「昭和回帰」でも...
記事全文を読む→例年よりも早い桜の便りが届いている、2026年の初春。東京では上野恩賜公園や代々木公園といった有名花見スポットは、記録的な円安で押し寄せたインバウンド客と、宴会制限が完全に撤廃された解放感に浸る日本人で、まさに足の踏み場もないカオス状態が予...
記事全文を読む→スマホの通知に追われる日常から、少し距離を置く。そんな「デジタルデトックス」では、若者が編み物や日記、フィルムカメラといったアナログ趣味にハマるケースが報告されているが、この流れは中年層にもじわじわと波及している。その背景にあるのは、仕事で...
記事全文を読む→
