長嶋が高校時代に放った唯一のホームランは、1953年8月1日、県営大宮球場で行われた南関東大会の熊谷高戦だった。観客が満員になった甲子園出場切符をかけた試合で、超特大の本塁打を打ってのけるあたりが、長嶋の長嶋たるゆえんである。ホームランが生...
記事全文を読む→松下茂典
長嶋の佐倉中学、佐倉一高(現・佐倉高校)時代にはヤンチャ伝説が残されている。自らケンカを売ることはなかったが、売られたケンカは買う主義だった。臼井駅から佐倉駅へ、電車通学を始めた佐倉中学の入学式のときだった。佐倉駅を出たとたん、足を思いきり...
記事全文を読む→1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(のち佐倉市に編入)で、長嶋茂雄は産声を上げた。長女・春枝、長男・武彦、次女・藤枝に次ぐ四番目の末っ子だった。長嶋は誕生日について聞かれると、決まってジョークを飛ばす。「生後6日目に日本中を震撼させた...
記事全文を読む→幼少時代、青春時代の日々が、その後の茂雄の人生を決定付けたのだろう。スーパースターの階段を駆け上る前夜、この街で家族と過ごした思い出を追った。今回、「佐倉ものがたり」の取材で、旧知の親類縁者、関係者に会うと、意外な事実が次々に判明した。まず...
記事全文を読む→80歳にして「野球教室」を開くなど、生まれ故郷の佐倉市を大切にする長嶋にとって、先頃の“ゴミ屋敷”騒動は、心を痛める出来事だった。〈長嶋家を強制解体に!〉という見出しが躍った女性週刊誌が発売されたのは、10月6日のこと。〈600平方メートル...
記事全文を読む→長嶋と八幡社の結び付きは古い。臼井小学校時代は、毎月1日と15日の参詣が恒例行事だった。午前4時、まだ暗いうちに起きて、星明かりだけを頼りに田圃の畦道を歩く。学校から八幡社までは30分の道のりだった。八幡社に着くと、子供たちは本殿の前に立ち...
記事全文を読む→ことし、長嶋はしばしば佐倉に姿を現している。8月のお盆には、“生家”の目と鼻の先にある菩提寺を訪ね、父方の従弟、長嶋義倫(よしみち)といっしょに墓参りをしている。「茂雄ちゃんがこんなに何回も佐倉に帰ってきたのは初めてじゃないかな。お墓参りは...
記事全文を読む→今年も佐倉で「少年野球教室」を開催し、精力的に動き回った。生を享け、国民的スーパースターへと駆け上がっていくまでに幾多のドラマを生んだ地、そしてどんな時でも必ず戻ってきた場所──。長嶋茂雄を追い続けたノンフィクションライター・松下茂典が、ミ...
記事全文を読む→1980年10月21日、千代田区大手町にある読売新聞社の大会議室で、長嶋茂雄は300人の報道陣に語りかけた。「2000万人とも2500万人とも言われる(巨人)ファンの皆様に対し、成績が不本意(61勝60敗9分け。3位)だったという、そのこと...
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