日本中の視線が注がれた大谷翔平のバットは、湿っていた。オリックスとの強化試合に侍ジャパンの「2番・DH」として先発出場したが、3打数無安打で途中交代。3月5日のWBC本番前にまだあと1試合、3月3日の阪神との強化試合を残すが、大谷の調子はど...
記事全文を読む→我が青春の週刊少年ジャンプ(2)江口はもっぱら“少年マガジン”の愛読者たっだ
鳥山の異色さは、その制作方法だけではない。描き上げた当時の作品を見てもわかる。当時の漫画家なら常識的に使用していたスクリーントーン(切り貼りして使う点描などの画材)をほとんど使っていないのだ。田中が続ける。
「トーンを使わない理由も『面倒だから』というものでした。切り貼りするのがというのではなくて、鳥山さんは『買いに行くのが面倒』と言っていましたね」
常識にとらわれないのは、ジャンプ編集部も同様である。人気漫画家の作品に頼る他誌を尻目に、ほぼ素人同然のままで、規格外の新人をデビューさせたのだから。そして、鳥山の“画力”は大きな衝撃を与えた。
「鳥山さんの絵を最初に見た時は、あまりのうまさと斬新さに本当に驚きました。絵の“ルーツ”が見えてこないんです。70年代の劇画ブームなど、流行した画風というのに影響を少なからず受けるはずなのに、それが感じられない。鳥山さんは『少年時代以降は漫画をそれほど読んでいなかった』と言っていました。本人にとっては、少年時代に自分が読んでいた漫画のイメージを独自の感覚で描いてみせただけなのかもしれませんが、鳥山さんの才能は、他の漫画家に脅威に映ったのではないでしょうか」
当時、ジャンプ連載陣の一人であった漫画家、江口寿史はこう話す。
「鳥山さんが出現した時は素直に『うまいな』と思いましたね。ただ、僕が最も驚いたのは、増刊に掲載された鳥山さんの『ESCAPE』という5ページぐらいのカラー漫画でした。すごい迫力がある絵だったんですけど、本人が『資料は何一つ見ずに、3日間で描き上げた』と言っていた。これは違う人種が現れたと思いました」
かく言う江口も常識外れのデビューを飾った「天才」漫画家である。
江口が本格的に漫画家を目指したのは20歳の時だった。ちばてつやのファンであった江口はもっぱら「少年マガジン」の愛読者だったが、70年代中盤から次々と新人をデビューさせたジャンプに熱気を感じ、ジャンプに狙いを定める。
2本の原稿を描き上げ、77年に「恐るべき子どもたち」でヤングジャンプ賞を受賞し、「8時半の決闘」で赤塚賞準入選を果たす。
ところが、この入選以前に江口のもとには、ジャンプ編集部から読み切り執筆の依頼が舞い込んでいた。
「今から考えると、めちゃくちゃな話ですよね。海のものとも山のものともわからない新人に原稿依頼してくるんですから。当時は漫画の描き方を学ぶなんてことはできなかったから、まったく技術も何もない状態でした。連載が始まってから、アシスタントにいろいろ教わって、『トーンって削れるんだ?』と聞いてしまったぐらいです」
江口の応募作を目にして、原稿の依頼をしたのはジャンプ編集部の中野和雄だった。「キン肉マン」(79年~87年連載)に出てくる「アデランスの中野さん」のモデルと言われる名物編集者の一人である。
「中野さんは僕を『月刊少年ジャンプ』で連載させようと思っていたらしいんです。でも、『江口は週刊でやらせる』と決められて、担当を外れることになっちゃって。新人を取られて茫然としていた中野さんに、当時の編集長が『和雄ちゃん、ゴミの中に宝があるもんだよ』って声をかけた。それで、ボツになった原稿をあさり始めて、その中から、ゆでちゃん(ゆでたまご)を見つけたんだそうです」
編集者同士が競い合うように原石を求め、その原石を読者の前にさらすことで磨き上げる。まさにジャンプが飛躍する原動力は、そこにあったのだ。
アサ芸チョイス
毎晩、家族でテレビを囲む。その画面の向こうで、こちらも「見られている」かもしれない。そんな話が近年、じわじわと広がっている。「盗聴装置が仕込まれている」「スパイ機器だ」……。SNSに流れる過激な言葉をそのまま受け取る必要はない。だが「スマー...
記事全文を読む→3月16日の確定申告期限が刻一刻と迫る中、国税当局が不穏な動きを見せている。ターゲットは、SNSやマッチングアプリを主戦場に男性らから多額の「手当」を吸い上げるパパ活女子、そして華やかな生活を売りにするインフルエンサーたちだ。かつては「男女...
記事全文を読む→小学館の漫画アプリ「マンガワン」をめぐる問題が、波紋を広げている。発端は、過去に児童買春・ポルノ禁止法違反で罰金刑を受けていた漫画家が、別名義で新連載を開始していたことだ。編集部は起用判断の不備を認め、当該作品の配信停止と単行本の出荷停止を...
記事全文を読む→
