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記事全文を読む→「最強の柔道家」木村政彦が顔面血だるまで沈んだ「力道山へのいけない挑発」/スポーツ界を揺るがせた「大問題発言」
戦前の柔道界において「最強の柔道家」とされる男、それが「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた木村政彦である。拓殖大学予科3年在籍時の1937年10月、全日本柔道選手権に初出場して初優勝。以降、同選手権では13年連続王者に輝き、15年間不敗のまま引退した。
プロ柔道家としてブラジルへ渡った際には、グレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーの腕を折り、失神させて勝利したことで「正真正銘の怪物」と言われたものである。
そんな木村がプロレスラーに転身、力道山とタッグを組み、全国を転戦したのは1954年だ。とはいえ、アメリカの巨漢レスラーを豪快な空手チョップでなぎ倒す絶対的なヒーローの力道山に対し、引き立て役に回される扱い(いつも木村が外国人レスラーにボコボコにされ、最後にヒーローとして力道山が登場し、勝利して観客を盛り上げるという演出)やギャラの配分問題に不満を募らせていたとされる木村はタッグ解消後、自身でプロレス団体「国際プロレス団」を立ち上げた。
そんな中、1954年11月の朝日新聞で木村が放ったのが、こんな挑発的なひと言だった。
「プロレスにはアングル(事前に決まった演出)がある。しかし、真剣勝負(ガチ)で戦えば、私が力道山に負けるはずがない。3分で彼を参らせてみせる」
一説には当時、木村は「国際プロレス団」の観客動員問題と経営難に直面しており、また結核を患う妻の医療費捻出など金銭的な事情も抱えていたことが、この挑発に繋がったとの見方があった。ただ、いかんせんリングの裏側にある「演出(アングル)」の存在に言及し、なおかつ「3分で参らせる」と豪語した衝撃発言に、力道山が怒りを露わにしたことは想像に難くない。
挑発から1カ月後の12月22日、蔵前国技館で力道山と木村による「昭和の巌流島」対決の幕が切って落とされることになる。
午後9時過ぎに始まった61分3本勝負は、15分49秒であまりにもあっけなく決着することになる。
プロレスに対して厳しい記事が掲載
両者がプロレス技、柔道技を繰り出す一進一退の攻防が続く中、状況が一変したのは試合開始から13分だった。木村が放った前蹴りが力道山の急所を直撃したことで、鬼のような形相で木村の顔面へ容赦ない張り手を繰り返す力道山。脳震盪を起こして崩れ落ちる木村へ、なおも執拗にサッカーボールキックを叩き込む。顔面血だるまとなった木村はなすすべもなく、マットに沈むことになったのである。
力道山のKO勝ちで幕を下ろした世紀の一戦。テレビで全国に生中継されていたこともあり、リング上で起きた目を覆うような光景は視聴者に大きな衝撃を与えた。その後、プロレスに対し厳しい記事が掲載されるなど、日本中で物議を醸すことになる。
試合から9年後、39歳で不慮の死を遂げた力道山。一方、プロレスの一線から退いた木村は柔道家に戻ったあと、母校の拓殖大学を大学選手権優勝へ導くなど指導者としての道を歩み、75年の生涯を全うしたのだった。
(山川敦司)
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