社会
Posted on 2022年07月05日 05:58

徳川秀忠の御落胤・保科正之が頑なに「将軍家の姓」を拒否した「義理」事情

2022年07月05日 05:58

 徳川幕府2代将軍秀忠の御落胤(らくいん)・保科正之は、養父の恩を忘れず、生涯、松平姓を固辞した義理堅い男だった。

 江戸時代、幕府の屋台骨を揺るがす大事件のひとつに、天一坊事件がある。山伏の天一坊改行が8代将軍吉宗の御落胤を称していたが、偽物として捕らえられて、獄門になった事件である。

 だが、将軍の御落胤として正式に認定され、活躍した人物もいる。会津藩の初代藩主となった保科正之である。幼名は幸松という。正之は慶長十六年5月7日(1611年6月17日)に、秀忠の四男として生まれた。母は静の方(志津)、後の浄光院と呼ばれた人物だ。静の方は北条氏の旧臣だった神尾栄嘉の娘とも、板橋の大工の娘とも伝わっているが、定かではない。ただ、秀忠に見初められて手が付き妊娠、出産したのは確かだ。庶子ではあるが、歴とした東照大権現・徳川家康の直系の孫、3代将軍家光の異母弟である。

 ところが母親の身分があまり高くないこともあり、当初、秀忠の側近数名以外には、その存在さえも伏せられていたという。ただ、武田信玄の次女である見性院が養育係となったことで、正之の運命が変化する。

 見性院のツテで、旧武田家の家臣だった信濃高遠藩の藩主・保科正光に養育されるようになり、後に後継者に指名されることになったからだ。

 家光が正之の存在を知ったのは、3代将軍になってからのことだった。家光は鷹狩りの最中に、目黒にある成就院という寺に立ち寄り、そこの住職から正之の存在を聞かされた。

 そして2人は寛永六年(1629年)に、初対面を果たす。寛永八年(1631年)には、正之は幕府の命を受けて出府。高遠藩3万石の相続を認められ、正式に藩主、大名となった。

 家光は正之を重用して政務に参加させ、寛永十三年(1636年)には、山形藩20万石を、さらに寛永二十年(1643年)には、会津藩23万石の大大名に引き立てた。

 以降、会津藩は明治維新を迎えるまで、正之の子孫が藩主を務めることになる。

 本来、将軍家は松平姓を名乗り、葵の紋を使用する。だが正之は、養育してもらった保科正光の恩を忘れることはなく、終生、頑なに保科姓を名乗り続けた。

 正之の子孫が松平姓を名乗り、葵の紋を使い始めるのは、3代藩主正容になってからのことである。

 なお、成就院にはお静の方がわが子・正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が境内に現存している(写真)。

(道嶋慶)

カテゴリー:
タグ:
関連記事
SPECIAL
  • アサ芸チョイス

  • アサ芸チョイス
    芸能
    2013年11月26日 10:00

    11月8日、歌手・島倉千代子(享年75)が肝臓ガンで死去した。島倉といえば、演歌の王道を歩むように、その生き様は苦労の連続だった。中でも、莫大な借金返済で味わった地獄は理不尽極まりなかったようで──。島倉は、男を信じて手形の保証人となったせ...

    記事全文を読む→
    芸能
    2026年04月28日 16:30

    バナナマンの日村勇紀が当面の間休養に専念すると、所属事務所ホリプロコムの公式サイトで発表した。今年に入ってから体調を崩すことが多く、医療機関を受診した結果、休養が必要との判断に至ったのだという。「心身の回復を第一に、コンディションを整えなが...

    記事全文を読む→
    カテゴリー:
    スポーツ
    2026年05月07日 06:30

    ゴールデンウィークが明けても再起の見通しが立たず、長すぎる空白期間を過ごしているのは、左内腹斜筋肉離れでリハビリ中のヤクルト・山田哲人内野手である。沖縄・浦添キャンプのシートノック中に脇腹の張りを訴え、戦線離脱。5月になっても打撃のひねり動...

    記事全文を読む→
    カテゴリー:
    注目キーワード
    最新号 / アサヒ芸能関連リンク
    アサヒ芸能カバー画像
    週刊アサヒ芸能
    2026/5/12発売
    ■650円(税込)
    アーカイブ
    アサ芸プラス twitterへリンク