日本とモンゴルの外交問題に発展したモンゴル草原火災に、元横綱・朝青龍ことドルゴルスレン・ダグワドルジ氏が「物言い」をつけた。火災が起きたのは10月8日。モンゴル東部ドルノド県のヌムルグ自然保護区で規模な草原火災が発生し、東京都の約2.4倍に...
記事全文を読む→「初代が大きくし、2代目が傾け、3代目が潰す」企業倒産の法則を地で行った加藤清正一族の大失敗
企業を倒産させるのは3代目が6割と最も多く、2代目と3代目社長を足すと、9割を超えるという。「会社は初代が大きくし、2代目が傾け、3代目が潰す」という言葉のゆえんである。
そして戦国、江戸時代にも、そんな言葉が当てはまる大名家が存在した。虎退治で有名な戦国武将・加藤清正の一族だ。
清正のあとを継いだのは、忠広である。慶長6年(1601年)、清正の三男として生まれたが、兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。同16年(1611年)、11歳で二代目肥後熊本藩主となったが、この時代に加藤家は傾いた。
清正の死と同時期に重臣の大木兼能が殉死し、国元で清正を補佐していた下川又左衛門も病死したからである。お家のピンチだったが、若年の忠広では家臣団をまとめられず、重臣たちは牛方と馬方に分かれる「牛方・馬方騒動」などで対立。
さらに、忠広自身も徳川家の血筋である正室・崇法院をおろそかにし、側室・法乗院を偏愛したため、トラブルが勃発。藩内はガタガタになった。
そして三代目となるはずの長男・光広が悪ノリした。ただ単に家臣を驚かすため、諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作成したのである。光広の母は2代将軍・秀忠の養女であり、家康の曽孫だったため、多少のイタズラには目をつぶってもらえると思ったのだろうが、世の中はそんなに甘くはなかった。
それまでの行状と、この3代目が作成したニセの連判状が問題視され、寛永9年(1832年)、忠広は改易処分を受けることになったのだ。
忠広は清正が築いた名城・熊本城を追われ、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。出羽国丸岡に一代限りで1万石を与えられた忠広は、母・正応院や側室、家臣とともに、50人の一行で丸岡入り。その後は文学や音曲に親しみ、22年も過ごしたという。
一方、ニセ連判状を作った3代目・光広は飛騨国高山藩主・金森重頼に預けられたが、1年後の寛永10年(1633年)に病死。忠広の次男・正良は藤枝姓を名乗ったが、父の死後にあとを追って自刃した。
忠広は丸岡で2子をもうけたといわれ、子孫は明治天皇が行幸した5000石相当の大庄屋・加藤与治左衛門家として存続。日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号である加藤セチが、最後にこの家系を継いでいる。
(道嶋慶)
アサ芸チョイス
「本格復帰に向けた観測気球を兼ねているのでしょう」こう話すのはさる芸能ジャーナリストだ。10月26日に開催された東京国際映画祭のレッドカーペット。雨が降りしきる会場で報道陣や観客の目をひと際引いたのが、女優の永野芽郁である。主演とプロデュー...
記事全文を読む→今年のお笑い賞レースは10月17日に「キングオブコント」が終わり、あとは11月1日の「NHK新人お笑い大賞」、そして12月の「M-1グランプリ」を残すのみ。賞レース番組では審査員の採点、コメントが大きくクローズアップされるが、その責任の重さ...
記事全文を読む→前巨人2軍監督・桑田真澄氏の次男でタレントのMattから「性被害を受けた」として、一昨年から今年にかけて、警視庁に複数の被害届が提出されていたと「週刊文春」が報じている。それによると、1人目の被害者は今年1月、都内でMattと美容系インフル...
記事全文を読む→

