「英雄色を好む」とはよく言われる言葉だ。講談の類にも登場する希代の豪傑ながら、戦闘のさなかに遊女と戯れて砦を落とされた戦国武将がいる。石見重太郎こと、薄田兼相である。
前半生は謎だが、重太郎は小早川隆景の剣術指南役である石見重左衛門の次男として生まれたとされている。その父が同僚である広瀬軍蔵に殺害され、敵討ちのために各地を転々とした。そして天正18年(1590年)、天橋立で本懐を遂げた。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田姓を名乗ることになったという。
重太郎の名が有名になったのは、旅の間の化け物退治があったから。それが「石見重太郎の狒々(ひひ)退治」だ。
重太郎は旅の最中、毎年のように風水害に見舞われ、疫病に苦しめられている村を通りかかった。神の怒りだと考えていた村人は毎年、同じ日に若い娘を生贄として櫃に入れ、神社の境内に放置していた。だが重太郎は「神は人を救うもの。生贄を求めるわけがない」と村人を説得し、自ら辛櫃の中に入った。
翌朝、村人が状況確認に向かうと、辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性をさらうとされる。大きな狒々が死んでいたという。
その後、重太郎は豊臣秀吉の3000石(のち5000石)で仕官。秀吉の死後も豊臣家に仕え、慶長19年(1614年)の陣で浪人衆を率いて、博労ヶ淵砦の守将となった。
ところが博労淵の戦いで遊女と乳繰り合っていたため、砦を陥落させる大チョンボを犯す。味方から「正月の飾りにしかならない橙と同じ」と揶揄され、「橙武者」として軽蔑されたという。
とはいえ、大阪夏の陣の道明寺の戦いでは十文字の槍を取り、黒毛にまたがって軍勢の先頭をきって駆け、十騎以上の敵を討ち取っている。その後、押し寄せた東軍のために、間もなく戦死したとされる。兼相流柔術や無手流剣術の流祖とされる働きをしたのが救いだ。
(道嶋慶)