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記事全文を読む→「巨人V9時代の暗部“湯口事件”」将来のエース候補が弱冠20歳で入院先で怪死/アサ芸「スクープ血風録」〈スポーツスキャンダル編〉
V9時代の川上野球には、ひた隠しにされたドラ1投手の不審死があった。今なおタブーとされる「湯口事件」の闇である。憧れの巨人軍に入った20歳の青年を死に追いやったのは─。
読売巨人軍の9年連続日本一は「V9」と呼ばれ、その前人未踏の栄光は永遠に語り継がれる伝説である。
しかしその裏で、将来を嘱望された若者が謎の死を遂げていた。
当時を知る巨人軍OBが振り返る。
「73年のオープン戦を半分ほど消化した頃でしょうか。湯口の死が新聞で報じられたんです。そもそも常に一緒にいた2軍の選手とは違って、1軍の選手はそんな事態が起きていたことを初めて知った。その死に関してまことしやかな噂話も飛び交っていたから、動揺が広がらないようにするためでしょう。ミーティングで、川上哲治監督が『ここだけの話にしておいてくれ』と断りを入れ、湯口の死について話をしました。選手、スタッフ70名はいたかな。その後、このことを口外した人はいません」
湯口とは、湯口敏彦(享年20)。岐阜短期大学付属高等学校(現・岐阜第一高等学校)時代に、3度のノーヒットノーランと完全試合を達成。春夏連続で出場した甲子園では、計7試合で61奪三振を記録し、防御率は1.35をマークした。超高校級ナンバー1左腕だった。
V9真っ只中の70年ドラフト会議で、巨人軍から1位で指名されて入団。エース・堀内恒夫の「18」に次ぐ背番号「19」。契約金は当時で推定1800万円と、期待の高さがうかがえる。その未来のエース候補の死に、川上監督は冒頭のような箝口令を敷いたのだ。
そもそも巨人入りについて家族は懸念していた。「巨人軍に葬られた男たち」(新潮文庫)の著者で、ノンフィクション作家の織田淳太郎氏が言う。
「家族はみんな内心、巨人からの1位指名をうれしがっていましたが、入団には反対していたんです。父親の昌範さんはいきなりプロに行くのではなく、ノンプロ行きを勧めていた。弟・康成さんも『おとなしく無口な兄の性格ではプロ、まして巨人でやっていけるのか』と心配していました」
そんな精神面での憂慮は家族だけではなかった。入団後、何かと湯口のことを気にかけていた2軍投手コーチの中村稔氏は、本誌2000年11月2日号でこう証言している。
「1年目の宮崎キャンプの時、若手を砂浜に連れ出したんです。そしたら湯口が海を見たとたん震えだした。理由を聞くと『山育ちのために海を見たことがない。テレビで見るのも怖い』と言うんだな。その時、正直この男はプロでやっていけるだろうかと思ったんだよな」
残念ながら、そんな周囲の不安が現実となってしまう。
きっかけとなったのが、72年11月23日に行われたファン感謝デーでの紅白戦だ。湯口はメッタ打ちにされた。試合後に川上監督から「今まで何やってたんだ!」と叱責される。このひと言が心に重くのしかかり、後に「川上監督に申し訳ないことをしてしまった。川上監督に‥‥」と繰り返しつぶやくようになったとされる。
先の取材で、中村氏はこう話している。
「ファン感謝デーの紅白戦はあくまでお遊びだしね。何度も湯口に『気にするな』と慰めた。しかし、何か思いつめた様子だったんだよね」
伸びのある速球が持ち味だったが、四球も多かった。
そこで中尾碩志2軍監督は、マンツーマンでフォーム改造に取り組ませたが、
「腕のテイクバックの取り方、足の上げ方、顔の向きなど数センチ単位で矯正させられました。また精神力を育むために、座禅を課している」(前出・織田氏)
しかし、フォームを変えたことで、自信を失ってしまう。「スピードが落ちて球が投げられない」と、元気のない声で、父・昌範氏に電話していることを週刊アサヒ芸能73年6月7日号では詳報している。
猛練習に加え、厳しい寮生活。規則を破れば鉄拳制裁もやむなし。元来まじめな性格な湯口が精神面で異常をきたすのは時間の問題だった。結果、グラウンドから姿を消すことに‥‥。
「練習にいなかったので、彼の隣の部屋の選手に聞いたら『風邪です』と。数日経って他の選手にも聞いたが、やはり『風邪』と言われた。なんとなく口裏を合わせているようで、何か事件に巻き込まれたのではないかと思ったんです」(前出・巨人軍OB)
実はその期間、湯口は「うつ病」と診断され、精神科に入院していた。
昌範氏は中尾2軍監督から「1カ月くらい休んでもかまわない。風邪をこじらせたということにしてくれ」と頼まれたことを本誌に明かしている。
チームメイトにさえも居場所は知らされていなかった。突然に姿を消した湯口に関して「女性問題」「黒い交際」「失踪」などの不謹慎な噂が飛び交うようになった。そんな憶測を一蹴するため、球団は入院中の湯口を宮崎キャンプに参加させたのである。
「世間やマスコミに湯口は元気であるとアピールするため、無理やりキャンプに引っ張り出したのです。巨人が体面を保つためにやったとしか思えない。その結果、病状が悪化して東京に戻されている。しかもマスコミの目を避けるため、飛行機の搭乗名簿は偽名。入院先でも母方の姓が使われています」(前出・織田氏)
当時、「哲のカーテン」と呼ばれた川上監督の情報統制で、選手の私生活管理は徹底的に行われていた。すべては勝利のためだという名分で‥‥。
73年3月22日午後5時10分、東京・牛込柳町の精神科病院で湯口敏彦は弱冠20歳でこの世を去った。
病院は「ノイローゼ(原文ママ)で入院、死因は心臓発作」と発表したが、球団広報は「肺浸潤で入院、心臓マヒで死にました」と発表している。
当時は、精神的な病に対し世間の理解が乏しかった。天下の巨人も、あえて病名を隠すことにしたのかもしれない。しかし、その後の対応はあまりにも不誠実と映った。
湯口の訃報をチームメイトが知るのは死後15時間以上も経ってからで、新聞記事で初めて知る者も多かった。しかも、故郷での葬儀に参列することすら許されなかったのだ。
昌範氏は「葬式の時、せめて2、3人でも選手が来てくれていたら、息子はどんなに喜んだことか」と冷たい仕打ちに心を痛めていた。
入院中、そして葬儀にも顔を出すことがなかった川上監督は「かわいそうなことをしたが、湯口は精神面が弱かった。大金をかけ、会社も大きな損をした」などと「巨人軍は常に紳士たれ!」とは真逆なコメントを残している。
同年、V9こそ達成したが、オフのドラフト会議で巨人軍から指名された上位3名を含む4選手が入団を拒否。湯口事件の余波が及んだことは、想像に難くないのである。
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