1981年9月23日、午後8時5分の後楽園球場、日本ハムナインが人工芝を蹴ってマウンドに殺到した。49歳の監督・大沢啓二が仁王立ちしていた。ナインの手で88キロの体が1度、2度、3度‥‥11度宙に舞った。続いて主将の柏原純一、オーナーの大社...
記事全文を読む→プロ野球
西川龍馬は、敦賀気比高から社会人の王子を経て15年のドラフト5位で広島へ入った。23年には打率.305を残し、そのオフにFAでオリックスへ移籍した。打撃で実績を築いた選手が、異なるリーグで自分の力を試すことになった。ところが移籍1年目の24...
記事全文を読む→柳裕也は、投手の仕事と勝ち星が必ずしも一致しない現実を背負ってきた。21年には11勝6敗、防御率2.20、168奪三振で最優秀防御率と最多奪三振を獲得。23年も防御率2.44を記録したが、勝敗は4勝11敗だった。象徴的なのが23年8月13日...
記事全文を読む→入団時の期待と、その後の現実との隔たりを象徴するのが田中正義である。16年のドラフトでは5球団が1位指名で競合したが、ソフトバンク在籍6年間での1軍登板は34試合。肩や肘の故障が重なり、持っている球の力を継続的な実績へ変えられなかった。田中...
記事全文を読む→1994年度に生を受けた野球人は、破格の当たり年だった。「二刀流」という突出した能力者が同年代にいることで、彼を基準に明と暗のごとく見られがちだが、改めてその他の94年世代の軌跡を振り返れば、異なる道をたどりながら主力としての成熟を果たして...
記事全文を読む→1962年9月22日、首位・阪神を2.5ゲーム差で追っていた大洋(現DeNA)は本拠地・川崎球場で中日を迎えた。場内アナウンスが大洋の先発メンバーを発表するたびに約1万人の観客たちがワーワーと大騒ぎした。大洋の監督・三原脩は平然としていた。...
記事全文を読む→ところで、21〜23年までパ・リーグ3連覇を果たしたオリックスだが、黄金時代に至るまでには苦労が絶えなかったようだ。「00年代中盤まで、2軍のケータリングはチェーン店のほか弁だけでした。理由は、球団が食事代にそこまで予算を割いていなかったか...
記事全文を読む→巨人に限らず、遠征先で利用するホテルについては、部屋数や球場でのケータリングの提供、試合後の夜食提供など球団側の細かい要望に対応可能なところに限られる。そのため複数球団が同じ宿を利用することも多いが、ここでも格差は生じているようだ。「1軍遠...
記事全文を読む→プロ野球はシーズン終盤、いよいよ優勝、CS争いが佳境を迎えている。あらためて思うのは、選手たちが1シーズンの長丁場を闘い抜く源は日々の「食事」である。折しも「食欲の秋」だが、12球団には成績同様に“格差”も生じているようで‥‥。セ・リーグで...
記事全文を読む→鈴木は決して「大谷に隠れた才能」ではない。ただ、この表現は半分正しく、半分危うい。正しいのは、同じ世代に大谷翔平がいたことで、鈴木の凄さが相対的に語られにくくなったという点である。大谷は投打二刀流でメジャーを席巻し、野球史そのものを更新して...
記事全文を読む→22年、鈴木誠也はシカゴ・カブスと契約した。MLB公式は、カブスが鈴木と5年契約を結んだことを発表し、契約額は関係者情報として8500万ドルと報じられた。日本人野手として、しかも右打ちの外野手として、これだけの評価を受けたこと自体が、鈴木の...
記事全文を読む→鈴木の名前が全国に強く刻まれたのは前述の通り、16年の広島時代だった。いわゆる「神ってる」という言葉とともに、勝負どころで本塁打、劇的な一打、そして広島の25年ぶりリーグ優勝を象徴する、まさに神がかりな活躍を見せた若き中軸として注目を浴びた...
記事全文を読む→ハンカチ王子、松坂大輔ら甲子園のヒーロー世代を挟み、今回は再び「大谷・誠也世代」に照射しよう。大谷翔平の突出した活躍に注目されがちな世代だが、個の才能を誇る選手たちがいる。鈴木誠也─日本人右打者はメジャーでどこまで通用するのか。彼のチャレン...
記事全文を読む→王貞治の両目に熱いものがあふれていた。その顔は青白く頰が削げていた。「ボクもたくさんのホームランを打ったが、こんなのは初めてだ。プロ1号よりも興奮した」と口にしてこう続けた。「死ぬまで忘れないだろうね」1971年9月15日、甲子園球場での阪...
記事全文を読む→
