「3番・DH」の張本勲は打球が右翼最上段の金網を直撃したのを確認すると、ヘルメットを夜空に放り投げた。日本プロ野球は1934年に誕生したが、46年目にして前人未踏の大記録が生まれた。通算「3000本安打」である。80年5月28日、川崎球場で...
記事全文を読む→猪狩雷太
1975年12月11日午後、巨人は東京・大手町の読売新聞会議室で日本ハムから交換トレードで移籍してきた張本勲の入団発表を行った。だが、これは第一幕だった。その後、場所を球団事務所に移してオーナーの正力亨が張本に向き合って公開インタビューが始...
記事全文を読む→1981年9月23日、午後8時5分の後楽園球場、日本ハムナインが人工芝を蹴ってマウンドに殺到した。49歳の監督・大沢啓二が仁王立ちしていた。ナインの手で88キロの体が1度、2度、3度‥‥11度宙に舞った。続いて主将の柏原純一、オーナーの大社...
記事全文を読む→1962年9月22日、首位・阪神を2.5ゲーム差で追っていた大洋(現DeNA)は本拠地・川崎球場で中日を迎えた。場内アナウンスが大洋の先発メンバーを発表するたびに約1万人の観客たちがワーワーと大騒ぎした。大洋の監督・三原脩は平然としていた。...
記事全文を読む→王貞治の両目に熱いものがあふれていた。その顔は青白く頰が削げていた。「ボクもたくさんのホームランを打ったが、こんなのは初めてだ。プロ1号よりも興奮した」と口にしてこう続けた。「死ぬまで忘れないだろうね」1971年9月15日、甲子園球場での阪...
記事全文を読む→長嶋茂雄が思わず天を仰いだ。両目は悔しさで真っ赤だった─。1973年8月14日、後楽園球場での巨人対ヤクルト16回戦だった。ヤ 1 0 0 0 1 0 0 0 0=2巨 0 1 0 0 0 0 0 0 0=1巨人は1点を追う9回裏に2死一塁...
記事全文を読む→野村克也が放った打球はバックスクリーンにグングン伸びて小さくなり、中段に消えて行った。逆転サヨナラ満塁本塁打である。とてつもなく大きな一発だった。本塁を踏んだ野村は興奮しながらこう言った。「ホンマにえらいこっちゃ」野球はツーアウトから─。ゲ...
記事全文を読む→1966年5月1日、広島市民球場での広島対大洋(現DeNA)6回戦だった。大洋の先発右腕・佐々木吉郎は9回裏、27人目の打者、阿南準郎を1ボール2ストライクと追い込んでいた。阿南が真っすぐを振り抜くと打球は右翼・黒木基康のグラブに収まった。...
記事全文を読む→「神様」の生涯1度の退場劇だった。1974年7月9日、川崎球場での大洋(現DeNA)対巨人11回戦の2回表、巨人の攻撃中にそれは起こった。打席に立っていたのは右打者の河埜和正。巨人キラー・平松政次が投じた初球は、厳しい内角へのシュートだった...
記事全文を読む→17歳の新人投手が初々しい笑顔を浮かべた。「いま、ボク絶好調ですからね」浪商高校(現大阪体育大学浪商高校)出身、「怪童」と呼ばれた東映(現日本ハム)の尾崎行雄である。1962年4月29日、福岡・平和台球場での西鉄(現西武)対東映のダブルヘッ...
記事全文を読む→広島市民球場のざわめきは収まるどころか、ますます大きくなっていった。1963年5月25日、広島対巨人3連戦の初戦、4回表1死二塁。中堅で途中出場していた柴田勲がこの試合、初の打席に入った。プロ2年目の19歳である。観衆は「アッ‥‥?」と驚い...
記事全文を読む→ミスタープロ野球・長嶋茂雄が北京の青空に3本のアーチを描いた。45歳、真っ白なユニホーム姿が躍動していた─。1981年6月21日、長嶋は中国棒球協会の招待で夫人の亜希子を伴い成田空港から北京に旅立った。秋に開催される日中対抗戦のために来日す...
記事全文を読む→「どんな守り方をしてもあんな大物を打たれたのでは役に立ちませんな‥‥」1964年5月5日、後楽園球場で巨人対広島のダブルヘッダーが行われた。第2試合は午後7時17分に始まった。7回裏、1点を追う巨人は、3番・王貞治が鵜狩道旺からバックスクリ...
記事全文を読む→1975年4月5日、この年もセ・パ両リーグが華々しく開幕した。話題を一身に集めていたのは巨人の新監督・長嶋茂雄だった。初陣である。後楽園に迎える大洋(現DeNA)の秋山登もまた新監督だ。と同時に、プロ野球ファンにはもう1つ、大きな関心事があ...
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