近鉄、いや日本球界の左腕エース・鈴木啓示にとって、1984年は最も脚光を浴びたメモリアルイヤーとなった。9月1日、大阪球場での南海(現ソフトバンク)対近鉄の第22回戦。2回裏無走者、早くも“ヤマ場”が訪れた。鈴木が史上4人目の3...
記事全文を読む→猪狩雷太
1972年10月15日、西宮球場での阪急(現オリックス)対ロッテ26回戦はシーズン最終戦である。今、筋書きのない本塁打王争いがフィナーレを迎えようとしていた。4回、打席に立った長池徳二(のちに徳士に改名)は落ち着き払っていた。マウンドには八...
記事全文を読む→広島市民球場のスタンドが雨で濡れていた。上空には再び、泣き出しそうな黒い雲が広がっていた。だが、9回表のマウンドに立った広島の右腕・外木場義郎、23歳が憂鬱な曇り空を吹き飛ばそうとしていた。完全試合まであと3人と迫っていたのだ。1968年9...
記事全文を読む→近鉄バファローズの悲願を乗せた打球が右翼席、それも上段に飛んで行く。先頭打者のラルフ・ブライアントは、行方を確認すると両手を高々と掲げた。マウンドでは渡辺久信が膝をついていた。元号が昭和から平成に変わった1989年10月12日、西武球場での...
記事全文を読む→衣笠祥雄がワンボールから3球続けて空振りした。三振だ。マウンドには江川卓が立っていた。広島市民球場がドッと沸いた。惜しみない拍手が球場を包んだ。衣笠はしばらく打席で動けなかったが、やっとの思いで一塁側ベンチに歩き出した。と、その時だ。相手側...
記事全文を読む→江夏豊の左腕から繰り出された剛速球は、打席に立つ王貞治の内角高めでグーンとホップした。7回1死無走者、カウントはワンボールツーストライク─。「三振することは恥ではない。中途半端に振ることが恥だと思っていた」王がフルスイングした。勝負がついた...
記事全文を読む→打撃タイトルとは無縁で、打率3割を超えたシーズンも30本塁打をマークしたシーズンもない。それでもファンに強烈なインパクトを与え、「記録よりも記憶に残る男」。それが新庄剛志だ。現在、日本ハムを率いて4年目の今季、2016年以来の優勝を狙ってい...
記事全文を読む→清原和博が照れくさそうな表情で、小走りにお立ち台に向かった。史上最多となる、球宴通算7度目のMVPの名前がコールされた瞬間だ。プロ野球における夏の風物詩とくれば、これはもうオールスター戦であり「オールスター男」と呼ばれたのが清原だった。「プ...
記事全文を読む→41歳の新人監督・川上哲治が、巨人の野手陣に多摩川球場での練習を命じた。外は横なぐりの激しい雨だった。1961年10月28日、巨人対南海(現ソフトバンク)の日本シリーズ第4戦は、後楽園球場で行われる予定だった。だが、試合は雨天中止。このシリ...
記事全文を読む→野村克也が大声を出した。視線の先には高井保弘がいた。「おう行くぞ、出番だ」1974年7月21日、後楽園球場でのオールスター第1戦は、セ・リーグが2対1でリードしていた状況で9回裏1死一塁、パ・リーグの攻撃を迎えていた。マウンドに立っていたの...
記事全文を読む→一塁走者・長嶋茂雄が二塁に突っ走った。三塁走者・王貞治が、捕手から二塁への送球の行方を確認した。そして─。1961年5月18日、後楽園球場での国鉄(現ヤクルト)対巨人の8回戦、21歳の王が1試合で二盗、三盗、そして本盗の3盗塁に成功した。翌...
記事全文を読む→78年、大洋ホエールズの主砲・シピンが巨人に移籍する。それにより背番号が「11」から「45」に変更となったのが角盈男氏。クラブハウスに呼ばれて長嶋からはこう伝えられたという。「『悪いけど11をシピンに譲ってくれ。空いてる番号は45しかない。...
記事全文を読む→80年の“解任”から93年の監督復帰まで、ミスターの活躍の舞台は野球解説などの球界だけにとどまらなかった。その唯一無二の天心爛漫なキャラクターを生かし、テレビ出演やビッグイベントのアンバサダーなど、マルチタレントとして引っ張りだこに。テレビ...
記事全文を読む→野村はまさに記録の人である。現役通算3017試合出場、通算打率2割7分7厘、2901安打、657本塁打を歴史に刻んだ。54年にテスト生として京都・峰山高から南海に入団。一度は解雇を言い渡されるが、粘り腰で契約延長を勝ち取った。筒井敬三、松井...
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