社会
Posted on 2025年10月19日 18:00

奇跡の脱北起業家〈第4回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(1)恋人は数学五輪メダリスト

2025年10月19日 18:00

 平壌でヨンヒは恋人にめぐりあう。彼は次世代をになうエリート科学者だった。しかもルーツは同じ在日。建設労働はむなしくても、デートは楽しかった。だが、2人に突然の別れが訪れる。そして再び目にする残忍な処刑‥‥。好評連載第4回は孤独を深めていくヨンヒの姿を描く。

 ヨンヒは恋をする。年ごろの大学生ならごく自然なことだ。ただ北朝鮮では幼いころから集団主義をたたき込まれ、風紀の取り締まりも厳しい。だれが密告するかわからない。息がつまる。そんな監視社会だからこそ、なおさら心から信じられる恋人が欲しい。ずっと口にチャックをしては生きていけない。悩みも夢も語り合いたい。まして韓流ドラマを見て育った世代のヨンヒである。ドラマみたいな恋を夢見てもいた。

 だが、男女の出会いの場がいくらもあるわけではない。貴重なチャンスが国家の行事である。2010年10月9日にヨンヒも出演した朝鮮労働党創建65周年記念マスゲーム「アリラン」公演の翌日、慶祝夜会が金日成広場で開かれた。金正日、金正恩が観覧する二夜連続の「1号行事」。前夜の「剣舞」のパフォーマンスで疲れ切っていたヨンヒはここにもまた駆り出される。ゆっくり休みたいはずが、ヨンヒの心は弾んでいた。金正恩が見たかったのではない。夜会で大好きな彼に会えるからだった。

 その彼は北朝鮮きっての秀才たちが集まる金日成総合大学物理学部の学生、パク・ソンオク(仮名)。年齢は2つ上だった。ヨンヒの通う張哲九平壌商業大学は8割が女性で、2割の男性は軍生活を終えて入学してきており、ほぼ既婚者しかいない。

「だから学内カップルはゼロ。私たちが彼氏を探すなら、金日成総合大学か金策工業総合大学、平壌外国語大学のどれか。この3校の学生じゃないと釣り合いがとれないんです。もちろん、男性も平壌商大の学生を彼女にしたがる。みんな裕福な家庭だし、背も高く、かわいい子ばかりと評判だったから。アハハ」

 とっぷり日が暮れ、金日成広場がサーチライトに照らしだされる。革命歌が大音量で鳴り響く。大学生が無数の輪をつくる。男子学生はブレザーの制服、女子学生はチマ・チョゴリ。フォークダンスのような軽やかなステップで踊る。大同江の河畔から花火が打ち上げられ、党の業績をアピールするオブジェが入ってくる。学生が男女ペアで担いでいるのは2メートルほどあるチョウザメのオブジェだ。その数50匹。金正日が新しいタンパク源としてチョウザメの養殖を命じ、成功したばかりだった。冷麺で有名な玉流館には専門のレストランまでできた。

 そう、この夜、ヨンヒとソンオクは仲よくチョウザメのオブジェを担いでいたのだ。

「8月からアリランと並行して一緒に練習していたんです。色白でハンサム、聞けば、彼のルーツも在日、それも済州島。物理学部だから頭いいんだろうな、誠実そうだな、と第一印象もよくて。広い平壌で在日出身の学生はそうしょっちゅうめぐりあわないんです。私は北朝鮮で生まれたのにオリジナルの人からはジェッポ(在日僑胞の意味)、ジェッポと呼ばれ、すごく嫌だった。そんなこともあり、彼ならきっと共感してくれるだろうって」

 ソンオクはただの秀才ではなかった。中学のころに全国数学コンテストでトップとなり、国際数学オリンピックにも出場、銀メダルに輝く。ドイツ留学組の研究者だった父がつくった銀河系の模型を見て育ったらしい。大学では理論物理学を専攻し、宇宙の謎、ブラックホールの研究に没頭していた。

「教授が解けない問題があれば、彼に託すんですよ。何日も自宅にこもり、英語で答えを書きあげる。とことんやらないと気がすまないタイプなの。でもデートは違った。難しい学問のことなど口にしない。冗談を言ってばかり。黄色いシャツに真っ白なスニーカーが似合っていた。ピアノもうまかったし」

 ちょうど平壌にマクドナルドふうのハンバーガーショップやピザレストラン、スタイリッシュな立ち飲みビアホールがオープンしたりしていた。若い2人の定番デートコースになったが、ある日、ソンオクはヨンヒをデートらしからぬ場所へ誘う。3大革命展示館だ。春と秋に国際商品展覧会が開かれる。一般の人民は入れないが、ソンオクはチケットを入手していた。

「広い会場に世界中から集めた最新鋭の電子機器や機械がずらっと並んでいたんですが、突然、彼、つないでいた手をほどき、ある機械を夢中で見つめだしたんです。動かないの」

 ソンオクが見入っていたのは北朝鮮が独自に開発したCNC、コンピューター制御装置だった。核・ミサイル開発を支える精密部品を製造するのに欠かせない重要装置である。

「そのCNC開発に彼のお父さんが携わり、金正日から二重労働英雄の称号を与えられたんです。金日成らの遺体を安置している錦繍山太陽宮殿にある石塀の細かな彫刻もCNCを利用してつくったそうです。でも、彼がぽろっとこぼした。父の業績を金日成の抗日パルチザンにつながる研究者に取られたことがある、在日出身はだめだ、と。お父さんの悔しさを代弁したんです」

鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。

写真/初沢亜利

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