社会
Posted on 2025年11月02日 18:01

奇跡の脱北起業家〈第5回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(2)粉にした遺骨を腰に巻いて脱北

2025年11月02日 18:01

 ようやく祖母の眼鏡にかなったブローカーが見つかる。2013年の夏、海州にいる祖母が娘一家の暮らす平壌にやってくる。いつもとどこか雰囲気が違った。

「『ヨニちゃん(ヨンヒの愛称)、おばあちゃん、この国を出ることにしたの。一緒に行かないか』って。えーって驚きました。私はまだまだ脱北など思いもつかず、堂々と海外に留学したいという考えでしたから。ママも誘われたんですが、私の弟が軍隊にいるので無理だと断りました。でも、おばあちゃんの決意は揺らぎませんでした」

 祖母は平壌にある五峯山火葬場に出かけ、海州に埋葬していた父親の骨を焼く。

「おばあちゃん、その焼いた骨を持ち帰り、真夜中にたたいて、たたいて粉にしていました」

 そして大晦日の夜、祖母は恵山から凍てつく鴨緑江を渡る。ラップにくるんだ父の骨をパンティストッキングに入れ、ぎゅっと腰に結びつけて。だが─。

「年明け早々の1月4日、新義州にある保衛部の集結所(拘禁施設)から電話がかかってきた。私が受けたんですが、すごく怖い男の声でね。『前日に中国の長白でおばあちゃんを捕まえた、面会にこい』と。不思議なのは捕まえたのが中国の公安でなく、北朝鮮の人間だったというのです。尾行されていたのかもしれません。どんなひどい仕打ちをされるか、心配で、心配で。すぐにも駆けつけたかったのですが、通行証の取得に手間取り、ママが集結所に出向いたのは1月末でした。所長に3000ドルのワイロを握らせても出られない。おばあちゃんは中国にいる親戚に電話しようとしただけだと説明をしていたんですが、あの白い粉が問題視されたんです」

 祖母は父を懐かしいふるさと、済州島の土に帰してあげたかったのだ。島のシンボル、漢拏山が望める地に墓もある。脱北を摘発する側も同胞、先祖への思いくらいは理解できただろうに極寒のさなか、取り調べが続く。与えられた食事は1日1回、ゆでたトウモロコシだけだ。70歳を越えた身には生死をさまよう過酷さだった。なんとか気力で耐え抜き、3月末、釈放される。遺骨も返され、娘一家の暮らす平壌のマンションに戻った。ヨンヒは号泣する。

「だれだかわからなかったんです。ぱんぱんだった顔はしわだらけ、65キロあった体重が40キロにまでやせ細って。衰弱しきっていましたから。栄養をつけなければ、とママがタンコギ(犬肉)スープや、ロシア産の冷凍牛肉でユッケジャン(牛の辛いスープ)をつくったりしました」

 みるみる祖母の体力は回復していく。

「おばあちゃん、少しも落ち込んでいなかった。それどころか、精神が強くなって出てきたみたいで。拘束されていたとき、たくさんの脱北者に会ったそうです。その80パーセントが女性、それもほとんどが20代。ここから出たらどうするか聞いたら、みんなまた脱北する、捕まっても、捕まっても、と。おばあちゃんは彼女らの言葉に勇気づけられ、『私も死ぬまで脱北を試みるよ』ときっぱり言う。で、私にはこう繰り返すんです。『ヨニちゃん、この国はだめだ。未来がないよ。もっと広い世界に生きなさい』って」

 済州島の血を引く女3代、とことんしゃべり尽くした濃密な時間がヨンヒの心を変えていく。祖母は夏には体重も戻り、海州へ帰った。

鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。

写真/初沢亜利

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