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記事全文を読む→70年代シネマ女優たち 梶芽衣子
21世紀に入って多用される「クールビューティー」という形容詞。その元祖は、氷のような美貌をふりまいた梶芽衣子であろう。70年代の映画界において最も客を呼べる女優であり、その評価は海をも越えた‐‐。「70年代シネマ女優」の掉尾を飾るのは、彼女をおいてほかにない。
迫力不足だと何度もダメ出し
〈死んで花実が 咲くじゃなし 怨み一筋 生きて行く‥‥〉
梶芽衣子(65)が歌った「怨み節」がヒットしたのは72年のこと。最高位6位、通算34万枚という売上げは、一般向けでない映画の主題歌としては異例のことである。タイトルそのままに歌詞もメロディも怨念がこもったような歌だったが、当時、小学生だった筆者も軽々とそらんじることができた。それほど影響力の強い曲だった。
日本の歌謡界は今よりも大人びていたが、映画界もまたしかりである。「この作品に出るのなら、セリフが一言もないならばお受けしましょう」
撮影時に25歳だった梶は、そんな「条件」を堂々と出している。梶なりに原作コミックの意図やシナリオを熟読し、役作りとして発した注文である。
前置きが長くなったが、その作品とは「女囚701号 さそり」(72年/東映)のこと。当初は「添え物(併映扱い)」だったが、メイン作品を上回る人気を得て、すぐにシリーズ化が決まる。監督の伊藤俊也にとっては、これが第1回の劇場作品であった。伊藤は、ちょうど40年前の梶との運命的な出会いを回想する。「72年の東映は、藤純子というドル箱女優が引退するので、その後継者を早急に探していた。5人ほど候補がいて、そのうちの1人が梶芽衣子だったんです」
梶はもともと日活の所属で、当初は本名の太田雅子を名乗っていた。これを昭和の名匠であるマキノ雅弘が「梶芽衣子」と改名させたが、実は「藤純子」の名づけ親もマキノである。候補者がひしめいた"ポスト藤純子レース"から、梶が一歩も二歩も抜け出したのは必然だったと言えよう。
さて伊藤は「さそり」の映画化にあたり、高倉健のヒットシリーズ「網走番外地」の女版で、という東映からの指令を受ける。「その路線の脚本もできあがっていたんですが、僕は二番煎じの作りには抵抗した。これが初めての監督作とはいえ、もっと自分の観念的な世界にしたかった」
幸い、神波史男と松田寛夫という気鋭の脚本家が協力してくれたため、伊藤の案を東映に了承させる。
梶は主演の松島ナミを演ずるにあたり、前述のようにセリフをほとんど口にしないことを要求した。伊藤の演出プランも、復讐に命を賭けるナミのキャラクターから、梶の意見と一致した。物言わず、行動のみで表すことで「底知れぬ恐怖」が増幅された。
ただし、クランクインにあたって両者は穏やかではない。伊藤は、梶が東映に移籍して主演を張った「銀蝶渡り鳥」(72年)の女.客姿を観ていたが、それと同じような"様式美"を引きずってほしくないと思った。「衣装合わせの段階からボロクソに言いましたよ。ナミが復讐するのは『裏切った男』だけでなく、その向こうに『幻想としての国家』があるわけだから、迫力が足りないって何度も何度もダメ出しした」
もしかしたら撮影初日に来ないのではないか‥‥。そんな心配は杞憂に終わり、梶は堂々と胸を張って姿を現した。そして今なおリメイクが繰り返される名作が幕を切る。
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