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記事全文を読む→死んでも「アイツ」に勝ちたかった⑩ 遠山奬志(元阪神)松井秀喜を手玉に取った「左キラー」の生き様!(2)
一軍に残るのに必死だった
遠山は85年にドラフト一位で阪神に入団している。1年目から先発投手としてフル稼働。ルーキーイヤーを終えると、8つの勝ち星を積み上げ、この当時は周囲から「江夏2世」とも称されていた。
だが、遠山の野球人生における苦悩はここから始まる。1年目のオフ、左肩を故障。ファーム落ちになると、今度は左かかとのケガ。3年目、4年目と思うような結果が残せなかった。5年目のオフには千葉ロッテにトレード。打者転向を果たすが、思うような結果が出せなかった。そしてプロ入り11年目の97年、ついにロッテから戦力外通告を受ける。
ところが、救いの神が現れた。入団テストを受けて、再び古巣・阪神に投手として入団すると、復帰2年目に、野村監督が就任したのだ。これが転機となった。遠山はサイドスローに転向し、同年5月22日には甲子園で行われた対巨人戦で、約10年ぶりの勝利をあげて、野村再生工場を代表する選手の一人となったのだ。
実は投球フォームを変えたのはロッテ時代からなんです。八木沢さん(元ロッテ監督)から「今、左のサイドスローがいないから、やってみないか」と言われたんです。初めはイチローを抑えるための練習だった。
もともと僕はスリークオーターでしたから、それほどの苦労はなかったですね。腕を少し下げるだけですもん。だからロッテを辞めて、阪神の野村監督から「サイドスローで行け」と言われても、特に困惑はなかったです。こっちも一軍に残るために必死ですからね。
その時には八木沢さんもロッテから阪神にピッチングコーチとして移っていたので、監督に「遠山はサイドスローが投げられる」と言ってくれたのかもしれません。ただ、「サイドスローで、インコースのシュートで攻めろ」とまで細かく指示してくれたのは野村監督が初めてでした。
こうして遠山は左打者を抑え、右打者が登場すると一塁手となって、次のバッターで左打者を迎えると再びマウンドへ戻るという「野村スペシャル」に代表される、ワンポイントリリーフのスペシャリストとして、みずからの地位をつかみ始めた。
松井君の存在を知ったのは、彼が高校生の時です。その頃から彼は有名人でしたから。初めて彼を見た時、清原選手以来のすごい選手が出てきたなと思いました。あんなに長打を打てる選手はなかなかいないですよ。ボールに対する対応力は目をみはるものがあった。
実際に対戦しても、彼は戦うたびに苦手なコースを克服してくるんです。前回ならば空振りしていたボールも、今回はファールチップにしてくる。そんなことはよくありました。松井君が左のバッティングピッチャーを呼んで、インコースのシュートを練習しているという話もよく耳にしましたよ。努力型なんです、彼は。もちろん、センスは並外れたものがありますが、それに加えた努力があるから、あれほどのバッターになれたと僕は思います。
松井君は対戦を重ねるたびに投げられるコースが少なくなってくる。もう、動きでわかるんです。「あっ、これは対策をしてきてるな」と。あれは本当に嫌でしたよ。向こうの調子がいいと、ストライクゾーンが以前よりも広がってるんです。そういう時は、打てなかったボールが打てるようになっている。松井秀喜はそういう選手でした。
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