アストロズの今井達也がオープン戦2度目の先発マウンドに上がったのは3月6日だったが、2回被安打1四球3奪三振と好投した。「30球を投げて19球がストライク。制球力が高いという前評判の通りでした」(現地記者)同時に聞こえてきたのは「意外な評価...
記事全文を読む→コロッケ&清水アキラ、2人に巡ってきた「チャンス」
個人事務所が倒産した清水アキラは、しばらく別の芸能プロに所属して、地方のスナックを回る地道な営業活動を続けていた。
そんな清水にようやくチャンスが訪れたのは、87年のことだった。フジテレビの「第三回 爆笑!スターものまね王座決定戦」でみごとに初優勝。ついに、ものまねタレントの頂点に立った。さらにその後も優勝2回、通算3回の優勝は、ビジーフォーの4回に次ぐ快挙である。
しかし一方で、そんな下ネタ芸にも、清水は行き詰まりを覚えた。
「五木さんたちのものまねを始めてウケたのはいいけど、次に何をやったらいいのか思い悩んだね」
悩んだ末に清水は、かつて「アキラオフィス」設立の際に事務所の間借りもさせてもらった、元あのねのねの清水國明に相談をした。
「清水さんは、とにかく精いっぱい、一生懸命やれと。一生懸命やってるやつにどうこう文句を言うやつはいないと言われて、なるほどと思ったね」
その言葉に励まされたのか、清水は誰も思いつくことがなかったある秘密兵器の発明に成功する。
それが、研ナオコや谷村新司の顔まねでおなじみ、その後、一世を風靡する「セロテープ芸」の誕生だった。
その頃、コロッケもものまねタレントとしての地位を確かなものにしつつあった。87年に放送された「第二回 ものまね王座決定戦」で優勝すると、今までのレパートリーに加え、新たに美川憲一のものまねでコロッケの名前は一躍、お茶の間に広まった。
「(番組に)本人がサプライズで登場するパターンが生まれ、NHKの『紅白歌合戦』で『さそり座の女』を競演させていただいた時は夢のようでした」
当時、大麻事件などで人気が落ち込んでいた美川憲一をよみがえらせたという意味でも、コロッケの功績は大きかった。
当時のコロッケといえば、何といっても顔芸である。トーク番組に出るようになったコロッケは、「どうやったら顔まね一つで美川憲一、森進一、岩崎宏美、五木ひろしを演じることができるのか?」
という質問に対して、「顔を柔らかくするために、毎朝15分、ぬるま湯につけて顔を柔らかくしています」
と答えていたが、これはウソである。
「これは、ものまねだけじゃなくしゃべりネタが欲しくて作った“ネタ”。ものまねにも何か、哲学のようなものが欲しかった」
単なる“ものまね芸人”から、エンターテイナーとして勝負できるタレントになりたい。そんな思いが、コロッケの胸の中に芽生え始めていた。
その顕著な例が、ムーンウオークである。
80年代に流行したマイケル・ジャクソンのムーンウオークをいち早く取り入れ、喝采を浴びた。
「アイドル界初がトシちゃん(田原俊彦)なら、ものまね界初は、僕。僕のものまねが単なるものまねから、エンターテインメントへ変わっていくきっかけになったのが、このムーンウオークでしたね」
ものまねブームで地方公演を行うチャンスが生まれた時、コロッケは真剣に「ものまね芸」を「ものまねショー」へと、ステップアップさせていきたいと考えていた。
こうしたものまねに対するあくなき情熱が、のちの「ものまねブーム」へと結実していくのである。
アサ芸チョイス
最近のカルチャーシーンにドーンと鎮座するものに「昭和レトロ」がある。とりわけ主婦層の間では昭和歌謡や復刻家電、駄菓子風スイーツなどがSNSで大きな話題となり、「推し活」の一環としてグッズを集める動きが拡大している。しかし同じ「昭和回帰」でも...
記事全文を読む→例年よりも早い桜の便りが届いている、2026年の初春。東京では上野恩賜公園や代々木公園といった有名花見スポットは、記録的な円安で押し寄せたインバウンド客と、宴会制限が完全に撤廃された解放感に浸る日本人で、まさに足の踏み場もないカオス状態が予...
記事全文を読む→スマホの通知に追われる日常から、少し距離を置く。そんな「デジタルデトックス」では、若者が編み物や日記、フィルムカメラといったアナログ趣味にハマるケースが報告されているが、この流れは中年層にもじわじわと波及している。その背景にあるのは、仕事で...
記事全文を読む→
