藤圭子にとって初代のチーフマネジャーである川岸咨鴻〈ことひろ〉は、半世紀近い芸能稼業で2回だけ頭を丸めたことがある。2度目はアイドル・木之内みどりが「恋の逃避行」で仕事に穴を空けたことへの詫びとして。その前に初めて丸めたのは、71年大みそか...
記事全文を読む→宇多田ヒカル
藤圭子が自宅マンションから飛び降り自殺をして10日余り。徐々に衝撃死までの空白の期間の奇行が明らかになりつつある。かつての思い出の地・新宿で、夜な夜なハメを外していたというのだ。「藤さんはちょくちょくお見かけしましたよ。ちょうど10年ぐらい...
記事全文を読む→当時の歌謡界は「興行師」と呼ばれる者たちが全国にいた。客を呼べる人気歌手を呼び、近隣の地域を含めて何カ所かの興行が組めるようにスケジュールを調整する。藤圭子のように10代であっても、興行が打てれば「先生」とか「看板」と呼ばれる世界だった。「...
記事全文を読む→98年、一粒種の娘・ヒカルの歌手デビューにより、藤圭子は“宇多田ママ”として芸能界に捲土重来を期した。みずからが表舞台に立つことはなかったが、その8年後の06年、思わぬ形で大衆の好奇の目にさらされることになる。それがギャンブルだった。スポー...
記事全文を読む→生涯に結婚した相手こそ2人だけだった藤圭子だが、絶世の美貌を世の男女が放っておくはずがなかった。謎の多かった私生活での魔性素顔のベールを剥ぐ。69年に「新宿の女」で鮮烈なデビューをし、瞬く間にスター歌手となった藤だが、そのわずか2年後の71...
記事全文を読む→忘れ去られた「昭和の歌姫」の藤圭子が再び脚光を浴びたのは98年。彗星のごとく現れ、「平成の歌姫」となった宇多田ヒカルの母親としてだった。理想の家族に見えた“宇多田ファミリー”は、世にも奇妙な形態を重ねた。「あの2人、6回の離婚と結婚を繰り返...
記事全文を読む→自殺という衝撃的な人生の幕引きを選択した天才歌手。その生涯を振り返ると、陰と陽を交互に行き来していたと言わざるをえない。しかし、日の当たる場所にいる時でも、日陰から“暴力社会”の住人たちが忍び寄り、彼女に常に付きまとい続けていたのだ。99年...
記事全文を読む→日本中に衝撃が走った藤圭子の飛び降り自殺──。若い世代には「宇多田ヒカルの母」であるが、70年代の歌謡曲黄金期には「閃光」として降りそそいだ存在。ただし、その光は虹色ではなく、暗くうごめく怨念の色である‥‥。これより、藤圭子を〈別れの旅〉へ...
記事全文を読む→第1回「日本歌謡大賞」(70年)に輝いたのは、「圭子の夢は夜ひらく」だった。デビュー2年目の大きな栄冠だったが、藤は淡々としていたと川岸氏は言う。「歌謡大賞でもらったトロフィーも『こんなのよりお金もらうほうがいいわ』とつぶやくんだ。彼女は時...
記事全文を読む→芸能記者も「自殺の原因は別のところにある」と見ている。「06年の外為法違反事件時に、藤は『ファーストクラスに乗って、世界のカジノを回っている』と周囲に話していたそうです。予約もしていないニューヨーク行きの便に『お金ならいくらでもあるわよ』と...
記事全文を読む→ステージに現れたのは全身黒ずくめのシックな衣装だが、短めのTシャツからはバッチリへそ出しを決めている。これが弱冠13歳、デビュー曲「AUTOMATIC」で255万枚の大ヒットを放つ僅か2年前の映像である。当時の宇多田を知る知人は言う。「当時...
記事全文を読む→昭和の芸能史において、藤圭子ほど衝撃をもたらしたデビューはなかった。人生の激流を投影させた《怨歌》の凄みは、死してなお多くの人の記憶に残る。「西新宿で始めたんだ、俺たちは。最後の最後に圭子はこの街に戻ってきたんだな‥‥」藤圭子がデビューした...
記事全文を読む→藤が飛び降りたマンションの13階に住む60代男性は、「藤さんらしい女性も同居していた男性も見かけたことさえない」と話す。このマンションは、プライバシーが確保されやすい構造となっていて、同じフロアの住人でも顔を合わす機会が少ないのだ。そのため...
記事全文を読む→「不幸が似合う女」は多くの人たちの喝采を浴びたあと、何ともやり切れない形でその人生に幕を下ろした。無類の凄みがあるハスキーボイスと美貌。まさに「昭和の歌姫」の言葉がふさわしかったが、晩年はその消息を知る人もほとんどいなかった。スターダムの栄...
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