1990年代、新日本プロレスは他団体との対抗戦によって強さを誇示し、興行的な成功を収めた。中でも95年10月9日、東京ドームにおける武藤敬司と髙田延彦の頂上対決をメインイベントにした、UWFインターナショナルとの全面対抗戦は、今も日本プロレ...
記事全文を読む→小佐野景浩
1993年春からライバル団体の全日本プロレスは、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)の四天王がストーリー性や言葉に頼らないリングの内容のみで勝負する1話完結・完全決着のハイレベルなプロレスによって平成黄金期を迎えるのに対し、新日...
記事全文を読む→新日本プロレスが1992年秋から、天龍源一郎率いるWARとの対抗戦を主軸にして団体の枠を超えた戦いを提供するようになったのに対して、全日本プロレスは三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)の4人がしのぎを削る純血路線で試合内容が果て...
記事全文を読む→全日本プロレスがジャンボ鶴田VS超世代軍から三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)の四天王時代に移行する1992~93年、新日本プロレスも新たな展開を迎えた。天龍源一郎率いるWARとの対抗戦である。天龍が90年春に全日本を退団して...
記事全文を読む→1990年の天龍源一郎らの選手、レフェリー、スタッフの大量離脱で存亡の危機に立たされた全日本プロレス。しかし、怪物的な強さを発揮するジャンボ鶴田に三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)らの超世代軍が真正面から挑む新たな図式は若いファンの共...
記事全文を読む→1990年は全日本プロレスにとって試練の年だった。4月にトップレスラーだった天龍源一郎がメガネスーパーの新団体SWSに引き抜かれ、その後、谷津嘉章、ザ・グレート・カブキらもSWSへ。最終的に14人もの選手、レフェリー、スタッフが引き抜かれて...
記事全文を読む→1990年春のメガネスーパーによる新団体SWS設立の際、最初に選手引き抜きのターゲットにされたのは新日本プロレスだが、抜かれたのはジョージ高野と佐野直喜の2人だけ。選手とレフェリー、フロント関係者を含めて14人もの離脱者を出した、全日本プロ...
記事全文を読む→1990年の日本プロレス界は、春から地殻変動を起こした。5月に異業種のメガネスーパーが、70億円の軍資金をバックに新団体SWSを設立。新日本プロレスと全日本プロレスが協調路線を強化して対抗するという図式になったのだ。トップスターの天龍源一郎...
記事全文を読む→1990年春、メガネスーパーの参入はプロレス史に残る大事件だった。大企業が70億円もの資金をバックに86~88年のプロレス大賞MVPに輝いた天龍源一郎を全日本プロレスからヘッドハンティングして、SWSなる新団体を設立してしまったのである。思...
記事全文を読む→1990年4月16日、大阪府立体育会館。天龍同盟を解散して1人になった天龍源一郎は、個室の控室で週刊ゴングの全日本担当記者であり、天龍番でもあった筆者に「ジャンボに負けたら‥‥辞めるよ」と言った。果たして3日後の4月19日、横浜文化体育館に...
記事全文を読む→全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を打ち出し、年始から明るいムードに包まれていた1990年のプロレス界に爆弾を投下したのは異業種のメガネスーパーだ。4月1日に新日本のジョージ高野、佐野直喜の引き抜き...
記事全文を読む→1月4日に、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。2月10日の新日本の東京ドーム大会に全日本からジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセン、谷津嘉章、タイガーマスク(三沢光晴)が参戦して、対抗戦...
記事全文を読む→1月4日のジャイアント馬場と坂口征二による全日本プロレスと新日本プロレスの協調路線発表、2月10日の新日本の東京ドームで両団体の対抗戦が実現して1990年の日本プロレス界は年初めから大いに盛り上がったが、その間にも大きな出来事があった。WW...
記事全文を読む→1990年1月4日、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。日本プロレス界は、長く続いた馬場とアントニオ猪木のBI対立時代から新たな時代に突入した。新日本のトップ外国人のスティーブ・ウイリアムスが...
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