今年2025年3月6日の大田区総合体育館大会で、新日本プロレスは旗揚げ53周年を迎えた。全日本プロレスも、10月22日には53周年を迎える。振り返ると日本のプロレス界は、53年前の72年にアントニオ猪木が新日本、ジャイアント馬場が全日本を旗...
記事全文を読む→ジャイアント馬場
名越彼自身がプロレスラーになろうと思った決め手は何ですか。斎藤プロレスと相撲の共通点を発見したからだと思います。ボクシングなど他の格闘技の対戦相手は、極端に言えば、二度と会わないこともあるけれど、相撲やプロレスは同じ相手と何度も闘います。仲...
記事全文を読む→テリー45周年ということで昔の話も伺いたいんですけど、最初は全日本プロレスに入って、付き人になりますよね。越中最初がジャンボ(鶴田)さん、その後5年ぐらいしてから(ジャイアント)馬場さんですね。テリージャンボさんはどういう方だったんですか。...
記事全文を読む→1999年は日本プロレス界にとって時代の変わり目となった。1月4日の東京ドームが大仁田厚の邪道色に染められ、強さの象徴とされていた橋本真也が小川直也の一線を超えるファイトで事実上のKOに追い込まれて、72年3月の旗揚げから〝キング・オブ・ス...
記事全文を読む→新日本プロレスが1992年秋から、天龍源一郎率いるWARとの対抗戦を主軸にして団体の枠を超えた戦いを提供するようになったのに対して、全日本プロレスは三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)の4人がしのぎを削る純血路線で試合内容が果て...
記事全文を読む→1990年の日本プロレス界は、春から地殻変動を起こした。5月に異業種のメガネスーパーが、70億円の軍資金をバックに新団体SWSを設立。新日本プロレスと全日本プロレスが協調路線を強化して対抗するという図式になったのだ。トップスターの天龍源一郎...
記事全文を読む→1月4日のジャイアント馬場と坂口征二による全日本プロレスと新日本プロレスの協調路線発表、2月10日の新日本の東京ドームで両団体の対抗戦が実現して1990年の日本プロレス界は年初めから大いに盛り上がったが、その間にも大きな出来事があった。WW...
記事全文を読む→1989年7月、アントニオ猪木が参議院議員になったことで、日本プロレス界は転換期を迎えた。72年3月に猪木が新日本プロレス、同年10月にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げしてからの日本プロレス界は、馬場と猪木のBI2大巨頭の対立によっ...
記事全文を読む→元号が昭和から平成に変わった1989年は、日本プロレス界にとっても時代の変わり目だった。4月に新日本プロレスが共産圏初のプロレスラーとしてソビエト連邦の格闘家を導入して東京ドームに進出し、その後、アントニオ猪木は「スポーツを通じての国際交流...
記事全文を読む→新日本プロレスは1985年12月6日、両国国技館で前田日明のUWFとの業務提携を発表。86年の新日本マットは、新日本 VS UWFの対抗戦を軸に展開されることが明らかになった。全日本プロレスからブルーザー・ブロディ、越中詩郎、ケンドー・ナガ...
記事全文を読む→1985年から日本マット界は新日本プロレスVS全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍という図式になったが、盤石と思われていた全日本&ジャパン連合軍にほころびが見えたのは、ジャパンが自主シリーズを開催した5月だった。ジャパンのシリーズ開催に...
記事全文を読む→全日本プロレスと新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の業務提携第1弾となった1984年8月26日の田園コロシアム大会は、2代目タイガーマスク(三沢光晴)のデビュー戦、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビにジャイアント馬場&ド...
記事全文を読む→1983年夏の新日本プロレスのクーデター騒動後、アントニオ猪木の参謀だった元取締役営業本部長の新間寿は、猪木の新たな受け皿としてUWF設立に動いたが、それとは別に新たな行動に出たのがクーデターの首謀者の1人、大塚直樹営業部長だ。もともと大塚...
記事全文を読む→1983年8月、新日本プロレスでクーデター騒動が勃発。同月29日にはアントニオ猪木が代表取締役社長を、坂口征二が副社長を退陣させられ、新間寿取締役営業本部長が3カ月の謹慎となり、取締役審判部長だった山本小鉄、テレビ朝日から出向していた大塚博...
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