─今、天龍プロジェクトの大会に車イスでファンの前に出ていますが、そこに思うところはありますか?天龍それは今の俺のエネルギー源ですよね。人前に出ていけば「シャキッとしなきゃいけない俺」っていうのが芽生えるし、話してることによって、何かを模索し...
記事全文を読む→天龍源一郎
─入院中の9月30日に、親友の三遊亭円楽さんが亡くなりました。天龍楽ちゃんは銀座でお金を使って、羽振りのいいとこ見せて、自分の弟子たちが気持ちを鼓舞できるように振る舞っていた。自分の命を縮めて上に立ってやってたんだなとつくづく思いますね。俺...
記事全文を読む→─「滑舌が悪い」ということで引っ張りダコになった時期もありました。天龍あれはね、俺が土台を築いたところで長州力にそのまんま持っていかれたからね(苦笑)。─それでも17年には、娘さんの紋奈さんが結婚されるなど、公私ともに順調だったと思います。...
記事全文を読む→引退から早10年、リングを降りてもなお次々と「過酷な道」が待ち受けていた。畑違いの芸能界、愛妻の死、病魔との闘い─。日本人で唯一、馬場・猪木の両巨頭からピンフォール勝ちを収めたミスター・プロレスが、己の宿命を激白する。─天龍さんは2015年...
記事全文を読む→テリーこれまでで一番印象に残ってる試合っていうと、どれになるんですか。神取一番は難しいですけど、やっぱりブル中野とのチェーンデスマッチとか、天龍(源一郎)さんとの試合とか。あと、北斗(晶)との試合も挙げられますけど。そのぐらいかな。テリーそ...
記事全文を読む→2000年6月の三沢光晴をはじめとする選手、スタッフ30名の大量離脱で存亡の危機に立たされた全日本プロレスだが、7月1日のディファ有明で予定通りに「サマー・アクション・シリーズ」を開幕させることができた。それでも危機的状況は変わらない。旗揚...
記事全文を読む→全日本プロレスがジャンボ鶴田VS超世代軍から三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)の四天王時代に移行する1992~93年、新日本プロレスも新たな展開を迎えた。天龍源一郎率いるWARとの対抗戦である。天龍が90年春に全日本を退団して...
記事全文を読む→1990年4月16日、大阪府立体育会館。天龍同盟を解散して1人になった天龍源一郎は、個室の控室で週刊ゴングの全日本担当記者であり、天龍番でもあった筆者に「ジャンボに負けたら‥‥辞めるよ」と言った。果たして3日後の4月19日、横浜文化体育館に...
記事全文を読む→全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を打ち出し、年始から明るいムードに包まれていた1990年のプロレス界に爆弾を投下したのは異業種のメガネスーパーだ。4月1日に新日本のジョージ高野、佐野直喜の引き抜き...
記事全文を読む→1990年1月4日、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。日本プロレス界は、長く続いた馬場とアントニオ猪木のBI対立時代から新たな時代に突入した。新日本のトップ外国人のスティーブ・ウイリアムスが...
記事全文を読む→元号が昭和から平成に変わった1989年は、日本プロレス界にとっても時代の変わり目だった。4月に新日本プロレスが共産圏初のプロレスラーとしてソビエト連邦の格闘家を導入して東京ドームに進出し、その後、アントニオ猪木は「スポーツを通じての国際交流...
記事全文を読む→1987年春の長州力らジャパン・プロレス勢大量離脱によって、全日本プロレスは存亡の危機に立たされた。もともと、全日本は日本人VS外国人という力道山時代からの伝統を守り、ジャイアント馬場の人脈でアメリカの超大物選手が集結するというのが売りだっ...
記事全文を読む→1985年、遂に全日本プロレスVSジャパン・プロレスが開戦の時を迎えた。だが、クリアすべき問題があった。長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団5人には、テレビ朝日との専属契約が残っていたのだ。前年84年3月、UWFが維新...
記事全文を読む→1983年8月、新日本プロレスでクーデター騒動が勃発。同月29日にはアントニオ猪木が代表取締役社長を、坂口征二が副社長を退陣させられ、新間寿取締役営業本部長が3カ月の謹慎となり、取締役審判部長だった山本小鉄、テレビ朝日から出向していた大塚博...
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