武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが2002年1月31日付で新日本プロレスを退団。3人はフリーとなったが、全日本プロレスに行くのは明白だった。その翌日の2月1日、新日本の札幌・北海道立総合体育センターで蝶野正洋が仕掛けた。武藤らの退団の大き...
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1980年代のプロレスブームを牽引した元プロレスラーの小林邦昭さん(享年68)が逝去したのは、9月9日。所属していた新日本プロレスは公式サイトで訃報を伝え、9月11日の宮城県大会では10カントゴングセレモニーが行われた。訃報から約1カ月、1...
記事全文を読む→プロレスの世界において、対戦相手のとエキサイティングな口ゲンカは、試合を盛り上げるために欠かせないものだ。そのため「猪木問答」はじめ、伝説的なバトルは少なくないが、ファンの多くが「これは間違いなく殿堂入り」と認めているのが、長州力と橋本真也...
記事全文を読む→1990年1月4日、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。日本プロレス界は、長く続いた馬場とアントニオ猪木のBI対立時代から新たな時代に突入した。新日本のトップ外国人のスティーブ・ウイリアムスが...
記事全文を読む→10月16日放送「有吉クイズ」(テレビ朝日系)は、長州力とあんり(ぼる塾)による新大久保ロケの様子がクイズ形式で流れるものだった。この番組で2人がロケをするのは二度目だ。前回の鎌倉ロケでは、初顔合わせの時から長州はあんりにベタ惚れ。散策中は...
記事全文を読む→1987年の新日本プロレスは、長州力をはじめとするジャパン・プロレスの大半の選手がUターンしてきた。86年1月から業務提携という形で新日本マットに上がっている、前田日明らのUWFを併せた陣容は84年の選手大量離脱以前の最強軍団に戻ったと言っ...
記事全文を読む→1987年春の長州力らジャパン・プロレス勢大量離脱によって、全日本プロレスは存亡の危機に立たされた。もともと、全日本は日本人VS外国人という力道山時代からの伝統を守り、ジャイアント馬場の人脈でアメリカの超大物選手が集結するというのが売りだっ...
記事全文を読む→1987年5月12&13日の新日本プロレス2連戦。長州力は全日本プロレスとの契約問題をクリアしないままリングに躍り込み、藤波辰巳(現・辰爾)、アントニオ猪木にラリアットをぶち込んで強行突破した。これにはジャイアント馬場が「何も決まらないうち...
記事全文を読む→1987年春、新日本プロレスへのUターンが囁かれていた、ジャパン・プロレスの社長兼エースの長州力が動いたのは3月28日。業務提携中の全日本プロレスの「チャンピオン・カーニバル」への出場をボイコットしたのである。ジャパンの竹田勝司会長と大塚直...
記事全文を読む→1987年3月23日、新日本プロレスへのUターンが囁かれる中で、長州力は東京・池尻のジャパン・プロレス本社で記者会見。3月末日で満了となる全日本プロレスとの契約を更新せずに、完全独立して全日本と新日本の両団体との交流を目指すことを発表した。...
記事全文を読む→1987年2月20日、長州力が消えた。この日、後楽園ホールで全日本プロレス「エキサイト・シリーズ」が開幕したが、長州は「発熱と神経性の下痢のために欠場」を発表。これは表向きの話で‥‥長州は午後5時過ぎ、ジャパン・プロレスの加藤一良専務に「今...
記事全文を読む→「ジャパンがこの世界で生きていくためには‥‥ジャンボなり、天龍なり、藤波なりをみんな倒さなきゃいけないから、まあ一生懸命頑張ります」1985年1月17日、徳山市民体育館でカート・ヘニングを撃破してPWF王座防衛に成功した長州力は、日本テレビ...
記事全文を読む→1985年暮れにジャイアント馬場とアントニオ猪木が水面下で握手、全日本プロレスと新日本プロレスの間に引き抜き防止協定が結ばれたことで、86年は両団体がそれぞれの活動に専念することができた年だ。新日本と前田日明率いるUWFの開戦は刺激的だった...
記事全文を読む→ジャパン・プロレスは1985年11月1日から7日の日程で3回目の自主シリーズ「ニューウェーブ・イン・ジャパン」を開催した。当初、全日本とジャパンには「ジャパンは1年間に1週間の自主興行を3回以上に分けて企画し、主催することができる」という取...
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