1990年の日本プロレス界は、春から地殻変動を起こした。5月に異業種のメガネスーパーが、70億円の軍資金をバックに新団体SWSを設立。新日本プロレスと全日本プロレスが協調路線を強化して対抗するという図式になったのだ。トップスターの天龍源一郎...
記事全文を読む→小佐野景浩
1990年春、メガネスーパーの参入はプロレス史に残る大事件だった。大企業が70億円もの資金をバックに86~88年のプロレス大賞MVPに輝いた天龍源一郎を全日本プロレスからヘッドハンティングして、SWSなる新団体を設立してしまったのである。思...
記事全文を読む→1990年4月16日、大阪府立体育会館。天龍同盟を解散して1人になった天龍源一郎は、個室の控室で週刊ゴングの全日本担当記者であり、天龍番でもあった筆者に「ジャンボに負けたら‥‥辞めるよ」と言った。果たして3日後の4月19日、横浜文化体育館に...
記事全文を読む→全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を打ち出し、年始から明るいムードに包まれていた1990年のプロレス界に爆弾を投下したのは異業種のメガネスーパーだ。4月1日に新日本のジョージ高野、佐野直喜の引き抜き...
記事全文を読む→1月4日に、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。2月10日の新日本の東京ドーム大会に全日本からジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセン、谷津嘉章、タイガーマスク(三沢光晴)が参戦して、対抗戦...
記事全文を読む→1月4日のジャイアント馬場と坂口征二による全日本プロレスと新日本プロレスの協調路線発表、2月10日の新日本の東京ドームで両団体の対抗戦が実現して1990年の日本プロレス界は年初めから大いに盛り上がったが、その間にも大きな出来事があった。WW...
記事全文を読む→1990年1月4日、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。日本プロレス界は、長く続いた馬場とアントニオ猪木のBI対立時代から新たな時代に突入した。新日本のトップ外国人のスティーブ・ウイリアムスが...
記事全文を読む→1989年7月、アントニオ猪木が参議院議員になったことで、日本プロレス界は転換期を迎えた。72年3月に猪木が新日本プロレス、同年10月にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げしてからの日本プロレス界は、馬場と猪木のBI2大巨頭の対立によっ...
記事全文を読む→元号が昭和から平成に変わった1989年は、日本プロレス界にとっても時代の変わり目だった。4月に新日本プロレスが共産圏初のプロレスラーとしてソビエト連邦の格闘家を導入して東京ドームに進出し、その後、アントニオ猪木は「スポーツを通じての国際交流...
記事全文を読む→1989年4月24日、共産圏初のプロレスラーとしてソビエト連邦の格闘家を東京ドームでデビューさせたアントニオ猪木は、さらに大きく踏み出す。猪木はソ連との交渉を通じて改めて国際交流の重要性を感じると同時に、民間の交流では限界があることを痛感。...
記事全文を読む→ソビエト連邦のオリンピックや世界選手権で実績を持つレスリングの猛者を共産圏初のプロレスラーにして、日本、アメリカのプロレスラーと対抗戦をさせるというアントニオ猪木の壮大なプランは89年4月24日、プロレス初進出となる東京ドームで「’89格闘...
記事全文を読む→1988年8月8日、横浜文化体育館で愛弟子・藤波辰巳(現・辰爾)のIWGPヘビー級王座に挑戦したアントニオ猪木は60分時間切れに終わると、自らチャンピオンベルトを藤波の腰に巻き、防衛を称えた。それはエース交代の儀式のようでもあり、猪木引退を...
記事全文を読む→1988年、新日本プロレスは藤波辰巳(現・辰爾)がアントニオ猪木に世代交代を迫る飛龍革命の勃発、猪木の命で武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が闘魂三銃士を結成。解雇した前田日明が新生UWFを旗揚げ‥‥と相変わらず激動だった。一方の全日本プロレスは...
記事全文を読む→アントニオ猪木の感性に陰りが見えた1987年12月27日の両国国技館暴動事件、前田日明解雇に連動する形での高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫(現・優光)のUWF勢の退団と、87年暮れから88年春にかけて新日本プロレスは再び激震...
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