ソビエト連邦のオリンピックや世界選手権で実績を持つレスリングの猛者を共産圏初のプロレスラーにして、日本、アメリカのプロレスラーと対抗戦をさせるというアントニオ猪木の壮大なプランは89年4月24日、プロレス初進出となる東京ドームで「’89格闘...
記事全文を読む→小佐野景浩
1988年8月8日、横浜文化体育館で愛弟子・藤波辰巳(現・辰爾)のIWGPヘビー級王座に挑戦したアントニオ猪木は60分時間切れに終わると、自らチャンピオンベルトを藤波の腰に巻き、防衛を称えた。それはエース交代の儀式のようでもあり、猪木引退を...
記事全文を読む→1988年、新日本プロレスは藤波辰巳(現・辰爾)がアントニオ猪木に世代交代を迫る飛龍革命の勃発、猪木の命で武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が闘魂三銃士を結成。解雇した前田日明が新生UWFを旗揚げ‥‥と相変わらず激動だった。一方の全日本プロレスは...
記事全文を読む→アントニオ猪木の感性に陰りが見えた1987年12月27日の両国国技館暴動事件、前田日明解雇に連動する形での高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫(現・優光)のUWF勢の退団と、87年暮れから88年春にかけて新日本プロレスは再び激震...
記事全文を読む→1987年の新日本プロレスは、長州力をはじめとするジャパン・プロレスの大半の選手がUターンしてきた。86年1月から業務提携という形で新日本マットに上がっている、前田日明らのUWFを併せた陣容は84年の選手大量離脱以前の最強軍団に戻ったと言っ...
記事全文を読む→1987年の日本プロレス界は、長州力の全日本プロレス・マットから新日本プロレスへのUターンを巡る両団体のリング外の暗闘が軸になってしまったが、全日本にブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーがUターンすることを新日本が容認することで...
記事全文を読む→1987年春の長州力らジャパン・プロレス勢大量離脱によって、全日本プロレスは存亡の危機に立たされた。もともと、全日本は日本人VS外国人という力道山時代からの伝統を守り、ジャイアント馬場の人脈でアメリカの超大物選手が集結するというのが売りだっ...
記事全文を読む→1987年5月12&13日の新日本プロレス2連戦。長州力は全日本プロレスとの契約問題をクリアしないままリングに躍り込み、藤波辰巳(現・辰爾)、アントニオ猪木にラリアットをぶち込んで強行突破した。これにはジャイアント馬場が「何も決まらないうち...
記事全文を読む→1987年春、新日本プロレスへのUターンが囁かれていた、ジャパン・プロレスの社長兼エースの長州力が動いたのは3月28日。業務提携中の全日本プロレスの「チャンピオン・カーニバル」への出場をボイコットしたのである。ジャパンの竹田勝司会長と大塚直...
記事全文を読む→1987年3月23日、新日本プロレスへのUターンが囁かれる中で、長州力は東京・池尻のジャパン・プロレス本社で記者会見。3月末日で満了となる全日本プロレスとの契約を更新せずに、完全独立して全日本と新日本の両団体との交流を目指すことを発表した。...
記事全文を読む→1987年2月20日、長州力が消えた。この日、後楽園ホールで全日本プロレス「エキサイト・シリーズ」が開幕したが、長州は「発熱と神経性の下痢のために欠場」を発表。これは表向きの話で‥‥長州は午後5時過ぎ、ジャパン・プロレスの加藤一良専務に「今...
記事全文を読む→「ジャパンがこの世界で生きていくためには‥‥ジャンボなり、天龍なり、藤波なりをみんな倒さなきゃいけないから、まあ一生懸命頑張ります」1985年1月17日、徳山市民体育館でカート・ヘニングを撃破してPWF王座防衛に成功した長州力は、日本テレビ...
記事全文を読む→1985年暮れにジャイアント馬場とアントニオ猪木が水面下で握手、全日本プロレスと新日本プロレスの間に引き抜き防止協定が結ばれたことで、86年は両団体がそれぞれの活動に専念することができた年だ。新日本と前田日明率いるUWFの開戦は刺激的だった...
記事全文を読む→新日本プロレスは1985年12月6日、両国国技館で前田日明のUWFとの業務提携を発表。86年の新日本マットは、新日本 VS UWFの対抗戦を軸に展開されることが明らかになった。全日本プロレスからブルーザー・ブロディ、越中詩郎、ケンドー・ナガ...
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