全日本プロレスと連合軍を結成して新日本プロレスにとって脅威になった、ジャパン・プロレスは1984年夏の新日本クーデターから生まれた。事件収拾後にクーデターの首謀者だった、元営業部長の大塚直樹が新日本を退社した後に立ち上げた会社だ。もうひとつ...
記事全文を読む→小佐野景浩
ジャパン・プロレスは1985年11月1日から7日の日程で3回目の自主シリーズ「ニューウェーブ・イン・ジャパン」を開催した。当初、全日本とジャパンには「ジャパンは1年間に1週間の自主興行を3回以上に分けて企画し、主催することができる」という取...
記事全文を読む→1985年秋、苦肉の策でアンドレ・ザ・ジャイアントをジャイアント・マシンに変身させ、9月19日の東京体育館では「もう提供できるカードは、これしかない」と、アントニオ猪木VS藤波辰巳(現・辰爾)の師弟対決を組むなど、苦戦を続けていた新日本プロ...
記事全文を読む→1984年9月から全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍に長州力以下13人もの選手を引き抜かれた、新日本プロレスが反撃を開始したのは85年3月。全日本のトップ外国人のブルーザー・ブロディを引き抜くと、ジャイアント馬場の付き人だった越中詩郎...
記事全文を読む→1985年、日本プロレス界は全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍VS新日本プロレスという形でスタートしたが、6月に長州力がジャパンの社長に就任したあたりから図式が微妙に変化していった。ジャパンは興行会社であり、業務提携する全日本の興行を...
記事全文を読む→1985年から日本マット界は新日本プロレスVS全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍という図式になったが、盤石と思われていた全日本&ジャパン連合軍にほころびが見えたのは、ジャパンが自主シリーズを開催した5月だった。ジャパンのシリーズ開催に...
記事全文を読む→1985年3月、ブルーザー・ブロディの引き抜きに成功した新日本プロレスの坂口征二副社長は「第2、第3の反撃材料もすでに用意してある」と、全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍への反撃を口にしたが、ブロディを獲得する以前から他の作戦も水面下...
記事全文を読む→1985年、長州力らのジャパン・プロレス勢との対抗戦に突入して、日本人VS超一流外国人から日本人対決にシフトした全日本プロレスは、新日本プロレスにとどめを刺すのではないかという勢いだった。シフトチェンジしても、豪華な外国人勢も維持。3月には...
記事全文を読む→1985年、遂に全日本プロレスVSジャパン・プロレスが開戦の時を迎えた。だが、クリアすべき問題があった。長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団5人には、テレビ朝日との専属契約が残っていたのだ。前年84年3月、UWFが維新...
記事全文を読む→1983年12月、元新日本プロレス営業部長の大塚直樹がアントニオ猪木に社名をもらい、新日本プロレスの兄弟会社として設立した新日本プロレス興行は、1年弱で日本プロレス界の台風の目になった。全日本プロレスとの業務提携、それに伴う新日本との絶縁、...
記事全文を読む→1984年9月から11月にかけて、新日本プロレスは存亡の危機に立たされた。新日本プロレス興行(10月9日にジャパン・プロレスに社名変更。以下、ジャパン)に対し「事前の了解なしに全日本プロレスと業務提携したのは契約違反である」として、8月24...
記事全文を読む→新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の大塚直樹社長が「業務提携している全日本プロレスのリングを盛り上げるために、現在開催中のシリーズ終了後に新日本プロレスから選手を引き抜きます」と宣言し、その解禁日とした1984年9月21日のスポーツ新聞...
記事全文を読む→全日本プロレスと新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の業務提携第1弾となった1984年8月26日の田園コロシアム大会は、2代目タイガーマスク(三沢光晴)のデビュー戦、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビにジャイアント馬場&ド...
記事全文を読む→1984年6月22日、元新日本プロレス営業部長の大塚直樹率いる新日本プロレス興行(以下、新日本興行)と業務提携したことにより、新日本の営業力を手に入れた全日本プロレス。ジャイアント馬場はもうひとつ、どうしても欲しいものがあった。それはタイガ...
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