1985年、日本プロレス界は全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍VS新日本プロレスという形でスタートしたが、6月に長州力がジャパンの社長に就任したあたりから図式が微妙に変化していった。ジャパンは興行会社であり、業務提携する全日本の興行を...
記事全文を読む→小佐野景浩
1985年から日本マット界は新日本プロレスVS全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍という図式になったが、盤石と思われていた全日本&ジャパン連合軍にほころびが見えたのは、ジャパンが自主シリーズを開催した5月だった。ジャパンのシリーズ開催に...
記事全文を読む→1985年3月、ブルーザー・ブロディの引き抜きに成功した新日本プロレスの坂口征二副社長は「第2、第3の反撃材料もすでに用意してある」と、全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍への反撃を口にしたが、ブロディを獲得する以前から他の作戦も水面下...
記事全文を読む→1985年、長州力らのジャパン・プロレス勢との対抗戦に突入して、日本人VS超一流外国人から日本人対決にシフトした全日本プロレスは、新日本プロレスにとどめを刺すのではないかという勢いだった。シフトチェンジしても、豪華な外国人勢も維持。3月には...
記事全文を読む→1985年、遂に全日本プロレスVSジャパン・プロレスが開戦の時を迎えた。だが、クリアすべき問題があった。長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団5人には、テレビ朝日との専属契約が残っていたのだ。前年84年3月、UWFが維新...
記事全文を読む→1983年12月、元新日本プロレス営業部長の大塚直樹がアントニオ猪木に社名をもらい、新日本プロレスの兄弟会社として設立した新日本プロレス興行は、1年弱で日本プロレス界の台風の目になった。全日本プロレスとの業務提携、それに伴う新日本との絶縁、...
記事全文を読む→1984年9月から11月にかけて、新日本プロレスは存亡の危機に立たされた。新日本プロレス興行(10月9日にジャパン・プロレスに社名変更。以下、ジャパン)に対し「事前の了解なしに全日本プロレスと業務提携したのは契約違反である」として、8月24...
記事全文を読む→新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の大塚直樹社長が「業務提携している全日本プロレスのリングを盛り上げるために、現在開催中のシリーズ終了後に新日本プロレスから選手を引き抜きます」と宣言し、その解禁日とした1984年9月21日のスポーツ新聞...
記事全文を読む→全日本プロレスと新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の業務提携第1弾となった1984年8月26日の田園コロシアム大会は、2代目タイガーマスク(三沢光晴)のデビュー戦、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビにジャイアント馬場&ド...
記事全文を読む→1984年6月22日、元新日本プロレス営業部長の大塚直樹率いる新日本プロレス興行(以下、新日本興行)と業務提携したことにより、新日本の営業力を手に入れた全日本プロレス。ジャイアント馬場はもうひとつ、どうしても欲しいものがあった。それはタイガ...
記事全文を読む→1983年夏の新日本プロレスのクーデター騒動後、アントニオ猪木の参謀だった元取締役営業本部長の新間寿は、猪木の新たな受け皿としてUWF設立に動いたが、それとは別に新たな行動に出たのがクーデターの首謀者の1人、大塚直樹営業部長だ。もともと大塚...
記事全文を読む→フジテレビをバックにアントニオ猪木の受け皿として1984年春に新団体UWFを旗揚げし、そこに引退したタイガーマスク(佐山聡)をカムバックさせ、外国人選手のブッキングはジャイアント馬場に依頼するという元新日本プロレス取締役営業本部長の“過激な...
記事全文を読む→1983年8月12日、タイガーマスクが虎のマスクとNWA世界ジュニア、WWFジュニアの2本のベルトを返上して人気絶頂のまま電撃引退。日本マット界は騒然となったが、新日本プロレスが揺らぎ始めたのは、その1カ月半前の6月30日の株主総会だ。当時...
記事全文を読む→1982年のアントニオ猪木は、ジャイアント馬場とのトップ会談で引き抜き戦争を停戦に持ち込むことができたことで一安心してしまったのか、体調不良に悩まされる1年を送った。まず4月1日の蔵前国技館における「第5回MSGシリーズ」決勝戦を両膝の負傷...
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