新日本プロレスと全日本プロレスの関係が良好だったのは、2013年1月4日の新日本の東京ドームに全日本の会長でもある武藤敬司が出場したところまで。その1カ月後に全日本の新たなオーナーになった白石伸生がSNSで「新日本は演劇だが、全日本はガチン...
記事全文を読む→武藤敬司
2007年1月4日の東京ドームにおける両団体の35周年記念大会以降、新日本プロレスと全日本プロレスはそれぞれに新時代構築に向けて活動していたが、08年に再び交わる。事の発端は、同年1.4東京ドームで棚橋弘至からIWGPヘビー級王座を奪取して...
記事全文を読む→新日本プロレスは2005年11月14日に、ゲームソフトの開発・販売を手掛ける株式会社ユークスに買収されて同社の子会社となり、会社の体制が大きく変わったが、武藤敬司率いる全日本プロレスにとっても05年は変革期だった。武藤は02年2月に全日本の...
記事全文を読む→2003年の日本プロレス界は、全日本プロレス社長の武藤敬司と新日本プロレス現場監督の蝶野正洋のまさかの絶縁によって、全日本&橋本真也率いるZERO‒ONE連合軍と、新日本&三沢光晴率いるプロレスリング・ノア連合軍の2大勢力の戦争になった。し...
記事全文を読む→2002年10月1日、武藤敬司が全日本プロレスの社長に就任したことで、日本プロレス界再編の気運が高まった。当時、新日本プロレスでは蝶野正洋が取締役になって現場監督として手腕を振るい、ZERO‒ONEの社長は橋本真也。かつての闘魂三銃士がそれ...
記事全文を読む→2002年の新日本プロレスは、1月の武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンと心臓部と呼ばれた幹部社員の全日本プロレス移籍、90年代の黄金時代を築いた長州力現場監督と永島勝司取締役企画宣伝部長の退社という大激震に見舞われ、現場責任者=蝶野正洋、マ...
記事全文を読む→2002年1月、日本プロレス界は大激震に見舞われた。1月15~19日に新日本プロレスの契約更改が行われたが、三冠ヘビー級&世界タッグ&IWGPタッグの6冠王者として新日本と全日本プロレスを股にかけて活躍していた、武藤敬司が18日午後の契約交...
記事全文を読む→2000年秋にスタートした新日本プロレスVS全日本プロレスは、01年1月28日の東京ドームにおいて開催されたジャイアント馬場三回忌追悼興行「王道新世紀2001」で、対抗戦に初出陣した武藤敬司によって空気が変わった。対抗戦はケンカモードで殺伐...
記事全文を読む→2000年6月の三沢光晴らの大量離脱によって、所属選手が川田利明と渕正信の2人になってしまった全日本プロレス。それでも馬場元子オーナーが看板を下ろさなかったのは「馬場さんの三回忌までは」という意地だった。その後、天龍源一郎の10年ぶりの復帰...
記事全文を読む→1990年春のメガネスーパーによる新団体SWS設立の際、最初に選手引き抜きのターゲットにされたのは新日本プロレスだが、抜かれたのはジョージ高野と佐野直喜の2人だけ。選手とレフェリー、フロント関係者を含めて14人もの離脱者を出した、全日本プロ...
記事全文を読む→武藤まあ、プロレスラーのNOSAWAは大したことねぇよ(笑)。NOSAWAそれは、わかってますよ(苦笑)。武藤大したことないけど、メキシコに行った時、トップでやってたから「頑張ってんだな」なんて思った。ただ、日本のプロレスとは違ったりするか...
記事全文を読む→NOSAWA武藤さんと初めて海外に行ったのは06年5月のメキシコですね。ウルティモ・ドラゴン校長の興行「ドラゴマニア」で。ピラミッドに一緒に行きましたよね。武藤ナウカルパンにあるウルティモの道場に学にも行ったよな。そのにオカダ・カズチカがい...
記事全文を読む→今年の2月21日、辿ってきたキャリアも実績も違う両者が、同じ大舞台でプロレス人生の幕を閉じた。過日、NOSAWA論外が上梓した自伝本には2人のエピソードが満載。顔を合わせるや、世界を股にかけたプロレス魂に花を咲かせるのだった。武藤敬司昨日、...
記事全文を読む→テリー引退後は何らかの形でプロレス界には残るんですか。武藤いやぁ、まだそこまで具体的には。試合の解説とか、依頼が来た仕事は受けようかなと思ってますけど。「武藤さん、女子プロをプロデュースしてくれないか」みたいな話もあるんですけど、そこまでエ...
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