東急田園都市線の某駅からタクシーに乗り「吉田拓郎の家まで」と言うと、当時はほぼ間違いなく連れていってくれたものだ。1983年6月、私はくだんの駅からタクシーで吉田邸を訪ねた。当時、吉田は女優の浅田美代子と再婚して6年目。だが、週刊誌に現在の...
記事全文を読む→吉田拓郎
音楽評論家・富澤一誠氏は、フォークブームの始まりとともに執筆活動を始めた。いわば歴史の生き字引として、若者音楽の変節と熱気を解説する。75年2月5日を、私は「フォーク名曲の日」と呼んでいます。同じ日に発売されたのが風の「22才の別れ」、かま...
記事全文を読む→テレビは、理性で抑えようとした人の感情をも浮き彫りにする。カメラがあることも忘れて激高した瞬間、視聴者は貴重な場面を目にすることになる。4月14日にオンエアされた「真相報道バンキシャ!」(日本テレビ系)にて、メインの福澤朗(55)が冷静さを...
記事全文を読む→アバンギャルドな放送スタイルゆえ、ラジオの枠にとどまらず、世の中すらも震撼させた「事件」は数多い。真夜中に撃鉄が落とされた瞬間をプレイバック!〈北京で始まった/大相撲九州場所で/牝馬の/横綱輪島が/後ろから棒のようなもので頭を‥‥〉NHKの...
記事全文を読む→テリーデビューのきっかけは、吉田拓郎さんや井上陽水さんが設立した「フォーライフ・レコード」のオーディションですよね。原田そうです。高2の時にオリジナルテープを送ったら、「うちからデビューする方向で考えましょう」とすぐ返事をいただいて。テリー...
記事全文を読む→いまや、本業の歌手よりも、芸能界の“ご意見番”として君臨する和田アキ子。しかし、近年はご意見番が高じて、しばしばその発言が“舌禍騒動”を起こしてきた。そしてまた、騒動となるような言葉を発してしまったのは、7月3日放送の「アッコにおまかせ!」...
記事全文を読む→テリー前から自分のライブの衣装は自分でデザインしてたんだよね。篠原はい。でもいちばん最初、まだ10代の頃に「篠原はデザイナーになるといいよ」って唯一言ってくれたのが吉田拓郎さんだったんです。テリーへぇ!篠原その時は「デザイナーになりたい」な...
記事全文を読む→タレントの渡辺正行が今月6日、「解決!ナイナイアンサー」(日本テレビ系)に出演した際、約8年前の50歳頃、更年期障害によるうつ病を患っていたことを明かして話題になった。番組の中で渡辺は、かつてうつ病だったことを告白したマルシアの当時の様子を...
記事全文を読む→おのれの生きざまを歌に託すアーティストは、ケンカにおいても負けることは許されない。魂を揺さぶるような勝負の行方はどっちだ!〈大学出たって馬鹿だから〉〈儲かる話とクスリにゃ目が無い〉〈ドラマの主役にゃ燃えている〉やつぎばやに繰り出すのは、桑田...
記事全文を読む→西田四郎が甲斐の存在を知ったのは、チューリップの財津和夫から渡された1本のテープである。そして財津は告げた。「すぐにウチと契約したほうがいいよ」甲斐の獲得を巡っては、吉田拓郎やかぐや姫を擁した「ユイ音楽工房」も名乗りを上げた。それを「シンコ...
記事全文を読む→日本の音楽史上、最も成功を収めた男性デュオがチャゲ&飛鳥であろう。70年代の終わりにデビューを飾ると、80年代や90年代にそれぞれ大きな足跡を残す。双方が作詞作曲を手がけ、ボーカルもこなす形で切磋琢磨し、その人気はアジア全域にも広がった。そ...
記事全文を読む→再びチューリップのデビュー期に話を戻したい。業界中が絶賛したメジャーデビュー曲「魔法の黄色い靴」(72年6月)は、期待に反してさっぱり売れなかった。続く「一人の部屋」(72年9月)も同様で、前述のように草野社長から「ダメなら帰れ」の最後通告...
記事全文を読む→歴史が長く、リスナーの反応も濃い。そんな性質のラジオだけにハプニングも少なくない。まずは、リスナーやマスコミを巻き込んでの騒動となったケースでは、75年の「オールナイトニッポン」で、吉田拓郎(66)が週刊誌の取材を受けた直後、「週刊誌にウソ...
記事全文を読む→テレビ、ラジオなどでのやさしい経済解説に定評のある森永卓郎氏(55)は、吉田拓郎(66)の古くからのファンである。その森永氏の心を揺さぶった1曲、「人間なんて」(71年)に込められた思いとは──。「コード3つで弾けてどの曲よりも易しかった」...
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