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記事全文を読む→“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第6回>チャゲ&飛鳥(1)
日本の音楽史上、最も成功を収めた男性デュオがチャゲ&飛鳥であろう。70年代の終わりにデビューを飾ると、80年代や90年代にそれぞれ大きな足跡を残す。双方が作詞作曲を手がけ、ボーカルもこなす形で切磋琢磨し、その人気はアジア全域にも広がった。それは、2人を育てた博多の地が「アジアの玄関口」と呼ばれたように──。
79年11月12日、屋根裏部屋のような熊本の下宿先で「夜のヒットスタジオ」を観た。本来ならカリスマの吉田拓郎が初出演するはずだったが、ドタキャンしたため、同じフォーク系の新人が抜擢されたのである。
〈燃えて散るのが花 夢で咲くのが恋 ひとり咲き〉
スタジオ全体に桜吹雪が舞う圧巻の演出で、その新人は力の限りに歌った。チャゲ&飛鳥のデビュー曲となった「ひとり咲き」である。番組の歴史でも名場面の1つに数えられ、観終わってなお、筆者の熱も冷めやらなかった。
〈九州から大型台風上陸!熱い喉が衝き叫ぶ!〉
これがデビュー時につけられたキャッチコピーである。テレビ西日本の事業部にいた藤井伊九蔵は、彼らを輩出したポプコンの九州大会に審査員で招かれているが「2位以下との力量の差は圧倒的」だったと記憶する。
通称・チャゲアスはデビュー直前まで7人編成のバンドであり、キーボードを担当したのがまだ女子高生だった八藤丸ふみだ。
「私と飛鳥さんの家が大野城市の近所で、家でエレクトーンを弾いていたら『ポプコンに出るから手伝ってくれよ』と言われたんです」
チャゲと飛鳥はそれぞれにポプコンへの出場を重ねていたが、ヤマハの九州地区担当だった秋吉恵介が「大学も同じだし、2人のほうがハモリもできるから」とアドバイス。ここに“歴史的な合体”を果たすことになる。
八藤丸はバンドの紅一点であり、唯一の高校生だったが、兄貴分にあたるアマチュア時代の2人はどう映っていたのか。
「私の実家がお好み焼き屋だったので、7人で仲良くテーブルを囲んだりと楽しい1年を過ごせました。ボーカリストとしては両方がメインでしたけど、物事を進めていくのは飛鳥さんで、練習でもリーダーシップを発揮していました」
つま恋(静岡)で行われる本選にも、78年、79年と連続でコマを進めた。満員の観客を前に、緊張を隠さなかったのは飛鳥だったという。やがてデビューが決まるが、ヤマハから突きつけられたのは「チャゲと飛鳥の2人だけ」という過酷なものだった。まだ高校生だった八藤丸は上京できる立場になかったが、他のメンバーは違った。
「特にギターの人はプロ志向だったから、悔しそうでした。でも私たちはアマチュアバンドで、7人一緒だと先々は食えなくなるかもしれない。そこまでの責任は取れないという苦渋の選択がチャゲさんにもあったと思います」
デビューが決まり“仲のいい兄ちゃんたち”が遠くへ行ってしまうことのみ、高校生の身には寂しかったという。今なお東京でキーボード奏者として活躍する八藤丸は、時おり2人のライブに出かけては楽屋で思い出話に花を咲かせている。
同じ時期、博多で同じ青春を過ごしたのは俳優の西田和昭である。故・水野晴郎の片腕として親しまれた「ぼんちゃん」であるが、2人は福岡・第一経済大学の1つ先輩であった。
「俺は博多でパントマイムをやっていて、その横でギターを弾いてくれたのがチャゲアスの2人」
西田は後に「ぼんと正月」というお笑いコンビを結成するが、その相方が「7人編成だった頃のメンバーの1人」でもあったのだ。
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