西田四郎が甲斐の存在を知ったのは、チューリップの財津和夫から渡された1本のテープである。そして財津は告げた。「すぐにウチと契約したほうがいいよ」甲斐の獲得を巡っては、吉田拓郎やかぐや姫を擁した「ユイ音楽工房」も名乗りを上げた。それを「シンコ...
記事全文を読む→財津和夫
チャゲアスはデビューと同時に「フォーク演歌」と揶揄された。デビュー曲「ひとり咲き」が持つ独特の情感を指してのことだが、西田は、それこそが「博多っ子」の歌だと思った。「ヤマハが作ったんじゃなく、福岡の空気を吸って生まれたのが『ひとり咲き』だよ...
記事全文を読む→〈二十歳になったばかりの僕は別れた女を責めながらいっそ死のうと泣いていた恋は一度と信じてた〉武田の自伝的な歌詞で、映画化・ドラマ化もされた代表作が「思えば遠くへ来たもんだ」(78年9月)である。オリコンの100位以内にランキングされることは...
記事全文を読む→再びチューリップのデビュー期に話を戻したい。業界中が絶賛したメジャーデビュー曲「魔法の黄色い靴」(72年6月)は、期待に反してさっぱり売れなかった。続く「一人の部屋」(72年9月)も同様で、前述のように草野社長から「ダメなら帰れ」の最後通告...
記事全文を読む→73年に「コーヒーショップで」でデビューしたあべ静江は、山口百恵や桜田淳子、アグネス・チャンと同年の新人賞を争った。百恵がホリプロ、淳子がサンミュージック、アグネスが渡辺プロと“王道”であるのに対し、あべは「シンコーミュージック」という音楽...
記事全文を読む→日本で初めて本格的に「ポップス」と取り組んだバンド──それがチューリップである。結成から40年以上が経っても名曲は色あせず、今も鮮烈に“青春の光と影”を映し出す。その背景には、彼ら自身が博多から上京し、もがき続けた日々が重なり合うのだ。「お...
記事全文を読む→陽水を中央に送り込んだRKBはもちろん、ラジオ局やプロモーターの「シンパ」は全国に広がってゆく。中でも印象的だったのが名古屋・東海ラジオでやっていた森本レオの番組だ。川瀬は、ディレクターと森本、それに陽水との4人で打ち合わせをした。「そこで...
記事全文を読む→