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記事全文を読む→“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第2回>チューリップ(3)
再びチューリップのデビュー期に話を戻したい。業界中が絶賛したメジャーデビュー曲「魔法の黄色い靴」(72年6月)は、期待に反してさっぱり売れなかった。続く「一人の部屋」(72年9月)も同様で、前述のように草野社長から「ダメなら帰れ」の最後通告が出されたのである。
博多のミュージックシーンにおいて財津は、誰よりも光り輝く存在であった。筆者はチューリップのライバルだった海援隊の武田鉄矢から、こんな言葉を聞いたことがある。
「吉田拓郎が『結婚しようよ』で大ブームになった時、博多でただひとり『大したコードじゃないよ』と言ったのが財津和夫。それはもう揺るぎなかった」
その海援隊のドラムだった上田雅利を引き抜くなど、財津は一部で「バンド潰し屋」という呼ばれ方もした。ただ、西田四郎によれば、それだけではなかったと擁護する。
「引き抜くというより、博多中のミュージシャンが財津に相談に行くんだから。もちろん、一緒にやりたいという連中も多かった」
西田はある日、財津から1本のカセットテープを渡された。それはアマチュア時代の甲斐よしひろの歌声である。
後日、財津に感想を求められた西田は、素直に「いい声だ」と答える。
「よし、俺のマネジャー合格! すぐに九州に飛んで契約したほうがいいよ」
後に甲斐が石橋凌(ARB)のテープを西田に聴かせ、同じように「久留米に行ったほうがいい」と伝えたのは、福岡の音楽史を語る上で見逃せないシーンである。
さてデビューからの2作が売れなかった財津が背水の陣で書いたのは、博多から上京した頃をモチーフにした「心の旅」(73年4月)である。もはや説明不要な大ヒット曲であり、みごとにメジャーの切符を手に入れる。ただし──、
「草野社長の鶴の一声だったね。レコーディング直前に、姫野達也をボーカルにしようと言い出したのは」
西田によれば、ディレクターの新田和長は最後まで財津のボーカルにこだわった。ただ、GS全盛期を知る草野の戦略は、メンバー最年少で、ルックスにも声にも甘さを残す姫野を先に売り出そうというものだった。
財津は勝負曲でありながらボーカルを外されたことに屈辱を感じた。それでも、振り返れば「あれで良かったんだ」と思え、スタッフの“ヒットを見抜く目”に改めて感服した。
ただし、チューリップは黄色い歓声を浴びるアイドルバンドとなった。姫野の甘酸っぱいリードボーカルは続いたが、あえて財津は、スタッフの反対を押し切って壮大なバラード曲をシングルにする。
自身がボーカルを取り戻した「青春の影」(74年6月)は、以来、多くのミュージシャンにリスペクトされる珠玉の1曲となった──。
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