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記事全文を読む→西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」
東映という三角城は、かつて「時代劇」をお家芸としていた。やがて、映画産業の斜陽化とともに劇場から遠ざかっていたが、78年に復興ののろしを上げる。テレビではなく、スクリーンで大型時代劇を!
全社一丸の使命を背負ったのは、東映のエースに成長した深作欣二だった。
「錦之介さんが入ります」
クランクインのその日、太秦の東映・京都撮影所は特別な緊張感と、格別の高揚感に包まれていた。全スタッフと出演者が花道を作り、主演の萬屋錦之介を拍手で出迎える。実に12年ぶりに〈御大〉が帰って来たことへの敬意だった。
その列に、念願の「東映時代劇に出演」がかなった西郷輝彦(65)もいた。
「東映にとっても時代劇の復興ということで、それはもう天地が引っくり返ったような大騒ぎ。僕も萬屋さんの映画はずっと観ていたから、共演できることに感激しましたね」
西郷は橋幸夫、舟木一夫とともに「御三家」として絶大な人気を誇る歌手だった。俳優業に重点を置くようになったのは、本誌に連載された「どてらい男ヤツ」(73〜77年/関西テレビ)のドラマ化が好評を博してから。さらに「江戸を斬る」(75〜81年/TBS)の遠山金四郎が当たり役となり、一躍、高視聴率男となった。そんな西郷が本格的な役者に転向した年、公開されたのが「仁義なき戦い」(73年/東映)である。
「すぐに映画館に観に行って、ぶっ飛んで帰って来た記憶があります。このパワーは何だろうか‥‥ものすごく新しい波だと感じましたね」
西郷は「江戸を斬る」が始まると、太秦の撮影所に通い詰める。ドラマで絶大な視聴率を誇りながら、やはり“本編”の撮影陣の前では、どこか小さくなっていた。また当時は「実録路線」が全盛だったので、撮影所が男の役者ばかりになったと笑う。
78年、東映が時代劇復興に選んだ題材は「柳生一族の陰謀」である。従来の東映時代劇と違うのは、将軍家だけでなく、大名、公家、農民に至るまで、激しいドラマが繰り広げられること。東映としても、深作欣二を使う以上は「新しい時代劇」という狙いはあった。平たく言えば「時代劇版・仁義なき戦い」である。
その物語は徳川幕府・二代将軍の秀忠が死去したことから始まる。三代目の将軍の座を巡り、兄・徳川家光(松方弘樹)と、西郷演じる弟・駿河大納言忠長の跡目争いが軸となる。そして萬屋は、兄の家光を将軍位に就かせようと奔走する柳生但馬守に扮した。
このキャスティングは岡田茂社長の一声で実現した。60年代に時代劇をプログラムから切り捨てた張本人が岡田であったが、何食わぬ顔で呼び戻す胆力もまた岡田らしかった。
萬屋は、あらかじめ脚本を読んで「これはおもしろい」と快諾した。そのため、深作流の斬新な演出にも抵抗はないかと思われたが、そうではなかったと西郷は言う。
「萬屋さんが1人で廊下を歩くだけのシーン。これを深作さんは7回もリテイクさせた。最後には萬屋さんが『これ以上、どうしろっていうんだ!』と怒って帰ってしまった」
別名を「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長いことで知られる深作だが、それは時代劇の重鎮を相手にしても遠慮はなかった。やがて西郷は、東映の俳優会館に集まる役者たちから、こんなウワサが広がっているのを聞く。
「サクさんは萬屋さんの芝居に対して『もっとリアルにできないのか!』と怒っているみたいだ」
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