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記事全文を読む→“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第4回>海援隊(1)
日本において、最もポピュラーな「博多弁」のイメージは武田鉄矢であろう。今から40年前、武田が海援隊として世に放った「母に捧げるバラード」は、その魅力を知らしめた歌である。ただし、ヒット曲の後に決して順風ではなかった道のりを、彼らはいかに乗り越えてきたのか──。
「海援隊は俺が東京へ連れて行く。レコード会社は俺と同じエレックだ。いいな、お前ら!」
72年7月24日、福岡・香椎球場の観客に向かい、泉谷しげるは熱く宣言した。豪雨の中を開催された「ふくおか・フォーク夏祭り」は、さながら、武田鉄矢が率いた「海援隊」の壮行会に変わっていった。
その日、東京から泉谷をゲストに迎え、博多側は井上陽水、海援隊、鮎川誠がいたサンハウスが迎え撃つ。陽気な博多っ子のイベントらしく、花火ありサーカスあり盆踊りありの混沌とした構成となった。
主催に名を連ねた福岡・RKBの野見山実は、以来、海援隊との交流を今なお続けている。
「球場近くの家を20軒ほど、菓子折りを持って回りましたよ。騒音対策だったんですが、幸い、博多の人は音楽に理解があるから苦情は来なかったですね」
野見山が初めて海援隊を見たのは、72年1月のことだった。博多のフォーク連合「ヴィレッジ・ボイス」のリーダー・山本良樹に誘われ、天神労働会館で行われた「99円コンサート」というイベントである。
「鉄矢は歌を歌わないで、千葉和臣と中牟田俊男のギターをバックに司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を朗読しているんです。最初は歌わないことにムッとしたけど、聞くうちに言葉の説得力が強烈だと思いました」
野見山は後に、毎日新聞のインタビューを受けたことがある。後見人として、デビュー間もない彼らをどう思うかと──。
これに野見山は「鉄矢は歌だけじゃなく、司会や役者もいけるかもしれない」と答えた。後に役者としての大成を予見させるものが、この時点であったということだ。
「役者で成功したのは泉谷も同じだけど、そういえば海援隊を連れて行ったのが泉谷だったのも奇妙な縁を感じますね」
野見山と同じく、テレビ西日本の事業部にいた藤井伊九蔵もまた、アマチュア時代から海援隊の面倒をみてきた。藤井が主宰していた「レッツ・ゴー・フォーク」に海援隊がたびたび出演。さらに藤井は、武田にテレビ西日本のアルバイトもやらせた。
「局が後援しているコンサートの場内整理や、番組で幼稚園を回る時に園児の相手をしてもらったりね。武田は福岡教育大学の教育学部にいたから、子供の相手はお手の物だったよ」
博多には伝説のフォーク喫茶「照和」があるが、ここでもチューリップに次ぐスターが海援隊であった。デビューが決まり、旅立ちライブで武田はこんな言葉を口にしている。
「海援隊は九州文化をつくるために上京するのです」
実際、武田が発した「コラ! なんばしよっと」などは、博多弁を全国区にする大きな役割を果たした。ただし、それは武田が役者として成功するまで長い年月をかけての“普及活動”であった。
東京行きの列車に乗り込む海援隊に、野見山が餞別として渡したのは「東京地図」だったという。それは、迷子にならぬようにとの気遣いであったが、同時に、アーティストとして迷わないでほしいとの意味も込めていた──。
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