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記事全文を読む→追悼・菅原文太 “未公開肉声”ドキュメントから紐解く「反骨の役者人生」(7)東映への移籍秘話
「仁義なき戦い」で大ブレイクする以前の役者修業時代から、菅原文太は反骨精神を発揮。松竹から東映に移籍する際には一計を案じてギャラの倍増にも成功した。一方、東映でかわいがられた若山富三郎との間には、映画さながらのドラマも繰り広げられていて──。
菅原文太が新東宝、松竹を経て、東映に移籍したのは昭和42年(1967年)秋のことだった。松竹のとき、「血と掟」「男の顔は履歴書」などに出演して知りあった同作主演俳優の安藤昇の紹介であったという。
安藤昇が俊藤浩滋プロデューサーにスカウトされ、東映で初めて「懲役十八年」(昭和42年2月、加藤泰監督)を撮ることになったとき、文太は安藤に誘われ、京都撮影所についていったのがきっかけだった。
「安藤さんにくっついていって、俊藤さんから『君はなんちゅう名前や?』なんていうところから始まってるわけだ(笑)。そんなんで何回か会っているうちに、『今、何しとるんじゃ?』『松竹でくすぶってますわ』言うたら『ほんなら、うちに来るか』『ぜひお願いします』ということでね、当時、松竹でオレね、20万しかもらってねえんだよ、ギャラが。だから、かつかつで、もう食えなかったな、何本かやらなきゃ。ホントにチョイ役で、2、3本撮るのが精一杯だったから」
とは、文太の弁だった。何しろ、その年(昭和42年)に出演した松竹作品4本が「シンガポールの世は更けて」(主演・橋幸夫、以下同じ)、「宴」(岩下志麻)、「恋をしようよ カリブの花」(三田明)、「人妻椿」(三田佳子)というものなのだから、タイトルと主演俳優を見ただけで文太がいかにところを得ていなかったか、推して知るべし。
文太の東映初出演は、高倉健の看板シリーズ10作目の「網走番外地 吹雪の斗争」(昭和42年12月、石井輝男監督)。だが、これとて、健さんと同房の囚人役で、ポスターにも載らないチョイ役であった。
「あれは石井(輝男)さんが個人的に呼んでくれたんだ。新東宝でオレは一緒に何本もやってるから。ぶらぶらしているのなら出てみないかと誘われ、出ただけの話でね」
俊藤プロデューサーによって文太が初めてキャスティングされたのが(「網走番外地シリーズ」は俊藤プロデューサーではなかった)、若山富三郎主演の「極道」(昭和43年3月、山下耕作監督)だった。
待田京介や山城新伍と同じ若山の子分役として起用されたのだが、文太の俳優としてのランクは、東映ではまだ彼らより下であった。文太はセリフがひと言もなく、ナイフ投げの名手という不気味な役どころで出演している。最初は脚本になかったのが、あとから急きょキャスティングされたもので、脚本を担当した松本功、鳥居元宏が書き加えた役柄だったという。
歌謡映画などのチョイ役で松竹でくすぶっていた文太にすれば、自分の持ち味を充分生かせた役であったろう。
文太を起用した俊藤プロデューサーをして、
〈頼まれたので使(つこ)うたが、やっぱりちょっと変わっていて、これは使いかたによってはいける〉(俊藤浩滋・山根貞男「任侠映画伝」講談社)
と思わしめた最初の作品となったのだった。
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