「アジア永遠の歌姫」と言われたテレサ・テンが亡くなってから、今年5月8日でちょうど30年を迎える。彼女が静養先のタイ・チェンマイにあるホテルで、気管支喘息のため急逝したのは1995年。まだ42歳だった。
テレサは14歳の時、台湾でプロ歌手としてデビュー。1974年には21歳で日本でもデビューすると、その人気は急上昇。しかし1979年2月、インドネシアのパスポートで入国していたことが発覚する。旅券法違反により国外退去処分を受け、その後は香港に拠点を置いて歌手活動を再開させた。
そんな彼女が日本のファンからの熱烈なオファーを受けて、1984年に再来日した。トーラスレコードに移籍すると、「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」で大ヒットを記録することになる。
ここでまた、物議を醸す騒動が起きる。1989年6月に中国で勃発した天安門事件後、香港で連日、テレビ番組に出演。中国政府への非難を繰り返したことで「民主化運動を支持して、政府に暗殺された」「いやいや、腎臓病ですでに亡くなったと聞いた」等々、まことしやかな死亡説が流れることに。日本の芸能マスコミも大騒ぎとなった。
テレサが新曲プロモーションのため来日し、成田空港で記者会見を開いたのは、1991年7月25日のことだ。当時、彼女はパリで生活していたのだが、筆者の取材メモには〈オレンジ色のボディコン・ワンピースに、ショッキングピンクのジャケット、網タイツに靴は紫色のローヒール〉とある。そして第一声は〈私、死んでないョ!2年ぶりの日本はうれしい!ハッピー、エキサイティング!〉だったと記されている。
テレサによれば、死亡説が独り歩きした理由は、
「たぶん昨年、父が亡くなった時、すぐに台湾に帰らなかったからでしょう。風邪をひいて具合が悪かったからだけど、それがオーバーに伝わったのではないでしょうか。う~ん…(レコードを売るための)パブリシティー、作戦ですかね」
しかし話題が香港返還に及ぶと、表情は一変する。
「悲しいんじゃない。悔しいんです。香港の人には権利が何もない。それが悔しい。イギリス、中国政府は香港人に何も聞かないから。どこの国にいても、私は香港の人たちのために闘います」
大粒の涙を流し、そう訴えたのだった。
テレサはフランスで14歳下のフランス男性と同棲生活を送っていたが、亡くなった1995年5月8日は、タイのチェンマイにあるホテルのスイートルームに滞在。男性が留守中に突然、喘息の発作に襲われ、廊下に倒れ込んだ。この時、テレサは一糸まとわぬ姿だった。
最期の言葉は「マーマ…(お母さん…)」。成田空港の記者会見で「42歳までには結婚したい。子供を産むチャンスだから」と語っていたテレサ。しかしその夢は、最悪の形で潰えてしまったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。