2025年8月6日は、広島に原爆が投下されてから丸80年になる。そしてこの地に広島カープが創設されてから、75年の時を刻む。その間、カープが被爆地の復興に果たした役割は、人々が想像するよりもはるかに大きい。
このチームにはこれまで、1200人を超える選手が在籍した。うち3分の1近くを投手が占める。その中でエースと呼ばれた投手は、ゆうに30人を超える。
創設75年を機とし、被爆2世の私は「カープ不朽のエース物語」(南々社/写真)を上梓した。この史観で書くならば、市民とともに戦った「エースの中のエース」は、やはりカープでいちばんの勝ち星(213勝)を挙げた北別府学だったのではないか。無名の選手からスタートした物語には多くの教訓やドラマがあり、市民やファンが共鳴した。
彼がもし150キロ以上を投げる剛球投手だったとしたら、おそらくあのような成績は残せていなかったのではないかと思う。北別府は球速で他の投手に勝てないことを悟り、徹底的に制球を磨き、配球を考えた。それが最も被爆地のチームらしいエースを創り出したのである。
では北別府の右に出るエースはいなかったのかと聞かれるならば、私はもうひとり別の史観から、人間として稀有な投手の名前を挙げる。それは日米で数々の名ドラマを生んだ黒田博樹である。
黒田の投球には、スポーツの世界をはるかに超える人生ドラマと感動があった。北別府と黒田。この2人はおそらく球団で30年に1人出るか出ないかというレベルの大エースだった。
今季は「ミスタープロ野球」長嶋茂雄が89歳でこの世を去った。巨人キラーとして何度も彼と対戦した安仁屋宗八はこう語る。
「長嶋から三振を奪うのが夢だった。僕のシュート対策で新聞紙を丸めた球を投げさせ、打つ練習をしていたと聞いた時は、本当に嬉しかった」
プロ野球12球団にはそれぞれ、エースと呼ばれる投手がいる。しかし、時代や地域を支える圧倒的な存在感を持つ投手は少ないように感じる。
現在のカープの羽月隆太郎と同じ身長(167センチ)で「小さな大投手」と呼ばれた長谷川良平から、今日の大瀬良大地、床田寛樹、森下暢仁まで。被爆地ヒロシマで市民の夢と希望を背負って投げたエースたちの壮絶な物語を、ひとつでも多く世に遺しておきたい。そうした思いから「カープ不朽のエース物語」を綴った次第である。
(迫勝則/作家)